タイでの Plurality の広がりってなに?
タイでも広く使われているチャットアプリ LINE には、うわさや怪しいニュースを送ると、ボランティアと編集チームが確かめてくれる窓口があります。この仕組みは、台湾で生まれたものをタイに持ち込んだものです。台湾のオードリー・タン(Audrey Tang、タイ語では ออเดรย์ ถัง)とグレン・ワイル(E. Glen Weyl)の書籍『Plurality』は、タイではどんな道すじで届いたのでしょうか。
ひとことで言うと
『Plurality』は 2024 年 7 月に、バンコクの Chusana(GitHub のアカウント名は chusanap)という人の名義でタイ語に全訳されました[1]。いまは本の公式サイト plurality.net でタイ語版として読めます[3]。ただし、紙の本や出版社は、この記事のための調査(2026 年 10 月)では見つかっていません。
タイでは、本より先に、二つの土台がありました。一つは、2019 年のタンの来タイをきっかけに台湾から持ち込まれた、みんなで事実を確かめる仕組み「Cofact」です[4]。もう一つは、台湾の市民ハッカーの集まり g0v に学ぶ、シビックテック(市民が公共のために技術を使う活動)の交流です[5]。
たとえば
バンコクの偽情報会議(2019 年 6 月)。 タイの市民社会の 8 団体が「International Conference on Fake News」を開き、タンが基調講演で台湾の Cofacts(協働のファクトチェック)の経験を話しました。Cofact は自分たちの紹介ページで、この会議から協力が生まれ、それがタイの Cofact につながったと説明しています[4]。同じ旅で、タンは新未来党(Future Forward)の党首タナトーン(ธนาธร)と夕食をともにしました[6]。
タイ語訳の公開(2024 年 7 月 14 日)。 chusanap は「Complete Thai 1.0.0」という一度の更新で、35 のファイルの訳文をまとめて GitHub(文書を共同で作るサイト)に入れました[1]。
バンコクでの基調講演(2024 年 11 月)。 イーサリアムの開発者の会議 Devcon SEA で、タンは「⿻ Infinite Diversity in Infinite Combinations」という題で講演しました。主催者の説明は、⿻ Plurality を、協働する多様性を勧める考え方だと紹介しています[7]。タイの経済メディア Thairath Money は、この講演のまとめで、Plurality を「แนวคิดพหุนิยม」(多元主義の考え方)と紹介しました[8]。
くわしく
訳したのは誰か
訳者のアカウント chusanap の GitHub の紹介欄には、名前「Chusana」、所在地「Bangkok」、そしてブログとして Substack(個人の発信サイト)の「The Soulful Systems」が載っています[1]。そのブログの著者は Chusana Prasertkul と名乗り、バンコク生まれで英国の寄宿学校で育ち、心理学と MBA を学んで、食品テックの会社を起こした経歴を書いています[9]。三つの点が合うので、同じ人だと考えられます。ただし、本人がアカウントとの関係をはっきり書いた文書は見つかっていません[1]。
Chusana は 2024 年 7 月 23 日のエッセイで、『Plurality』ともう一冊の本を読んで強く揺さぶられた、と書きました。そして、この本がオープンソース(誰でも中身を見て手を加えられる形)で作られ、翻訳のために Discord(チャットの場)に 16 の言語のチャンネルがあることを紹介しています。最後はタイ語で、タイの読者に Discord への参加を呼びかけ、英語からタイ語への訳者がとても必要だと書いています[10]。
どうやって訳したのか(人の手か、機械翻訳か、協力者はいたか)は、更新の記録にも説明の文書にも書かれていません[1]。なお Chusana は、ブログの文章を書くときに ChatGPT で作った AI の助手を使うと書いていますが、これは翻訳についての説明ではありません[9]。
「公式の訳」なのか
ここは誤解されやすいところです。Chusana は訳文を本の元の置き場(pluralitybook/plurality)に取り込んでもらう申し出(PR #962)を出しましたが、取り込まれずに閉じられました。本の置き場へのコメントで akinorioyama が、各言語の版は訳者の置き場にあるまま、plurality.net がそれを読み込んで表示する設計だ、と説明しました[2]。
本の元の置き場の案内文(ReadMe)にある翻訳の一覧には、タイ語の行がありません。タイ語の行があるのは、訳者が複製した側の案内文だけです[1]。一方で、plurality.net のサイトの設定はタイ語を組み込んでいて、トップページに並べる 6 つの言語の一つにしています[3]。つまり、サイトでは表示されているけれども、本の案内の翻訳一覧には載っていない、という状態です。→ 本の版と翻訳
訳語の特徴
タイ語訳は Plurality を「พหุนิยม」と訳しています。これは直訳すると「多元主義」です。3-0 章は、⿻ の記号をこの語の代わりに使う、と説明しています[11]。英語の原文では、Plurality と pluralism(多元主義)は別の語ですが、タイ語訳では 2-1 章の pluralism も同じ「พหุนิยม」です[12]。二つの語が訳の上では区別されていないことになります。
台湾とのつながり(2018〜2019 年)
タイの Social Technology Institute の代表で、新未来党の党の登録の担当でもあったクライコン(Klaikong Vaidhyakarn)は、台湾民主基金会のフェローとして、g0v がうまくいった理由と、それをタイに移す方法を論じた論文を書きました[5]。2018 年 10 月にタンと話したとき、タンは、自分は台湾のどの政党にも肩入れしていると見られてはいけない、と述べています[13]。
2019 年 6 月のバンコクでの取材で、タンは、クライコンが講演の要点を Twitter にまとめ、すぐに数百人に共有されたことを話しました。そして、どの党派かにかかわらず、各党がデジタルの経済と社会にとても関心を持っている、と語っています[14]。
同じ年の 12 月には、為泰党(Pheu Thai)の首相候補だったチャッチャート(Chadchart Sittipunt)が台湾でタンを訪ね、バンコク都知事選に出るかもしれない、と話しました[14][15]。タンは、総統杯ハッカソンで使うクアドラティック投票を紹介しました。一人が 99 ポイントを持ち、1 票は 1 ポイントですが、同じ案に 4 票入れるには 16 ポイントかかる、という仕組みです。タンは、一つの案にだけ投票する方式では多くの人が負けたと感じるが、クアドラティック投票ならみんなが勝ったと感じる、と説明しました[15]。→ クアドラティック投票・g0v
Cofact:台湾の仕組みを持ち込む
タイの Cofact は ChangeFusion と OpenDream が運営し、台湾の元のソースコードを手に入れられるよう案内しています[4]。2020 年 4 月の公開のとき、ChangeFusion の開発者は、台湾の事例から着想を得たと話しました[16]。
タンはその後も、タイの Cofact を、台湾の道具がほかの国に持ち出せる証拠として何度も挙げています。2024 年には、Cofacts は台湾だけでなくタイにもあるので、台湾だけの特別な話(例外主義)ではないことを示している、という趣旨で話しました[17]。2024 年 5 月の Cofact の報告によれば、Cofact は創設 5 周年を祝って、2024 年 5 月 2 日から 5 日まで台北を訪ねました[18]。→ Cofacts
本と重なるタイの国内の実践
市民の団体 WeVis は、バンコク都の予算をわかりやすく見せる活動から始めました。都知事が「Open Bangkok」という政策を打ち出すと、都と正式に協働するようになりました[19]。憲法改正の議論を集める DreamCon では、議論の道具として Pol.is と Arguman を検討し、Arguman を選びました。けれども Arguman は保守が止まっていて、タイ語にも対応していなかったので、その考え方に触発されて自分たちの仕組みを作りました[19]。→ Polis
どこが議論になっているか
- タンの役所への g0v 側の批判。 クライコンの論文は、タンの働きが、シビックテックとオープンデータのコミュニティから、期待に届かないと強く批判されたことを紹介しています。同じ論文によれば、タンは、自分はむしろアナーキスト(無政府主義者)で、協力が生まれやすい雰囲気を作りたいのだ、と主張しました[5]。論文はまた、タイでは違う集団が意見を言い合って合意を作る開かれた場が育っておらず、自由な表現が妨げられている、と結んでいます[5]。
- 台湾のやり方は移せるのか。 国の開発の機関と国連開発計画(UNDP)による Thailand Policy Lab は、2022 年の記事で、vTaiwan は国の誰もが参加できる過程にはまだなっておらず、周縁の人々がこぼれ落ちるおそれがある、と書きました。台湾で起きたことがほかの国でうまくいくとは限らない、とも留保しています[20]。→ vTaiwan
- 「democracy washing」。 WeVis の共同創業者タニサラ(Thanisara Ruangdej)は、本気でない指導者が形だけ参加の手続きを踏むことを「democracy washing」と呼んで警告しました。クーデターのあとの国の予算では 5 年試みて失敗し、成果が出たのは都のレベルだった、とも話しています[19]。
- 国の統制とのはさみうち。 Cofact の共同創設者スピンヤー(สุภิญญา กลางณรงค์)は、立ち上げのころ、国が統制を強めようとし、社会もそれを求めるなかで、表現の自由を守りながら有害な言論に対処する案を出すことが難しかった、と振り返っています[21]。タンも 2020 年に、タイの Cofact は政治の風土の違いから、主に健康のうわさを扱っている、と述べました[17]。
よくある誤解
- 「タイ語の本が出版された」。 確かめられるのは、CC0(誰でも自由に使える形)の web 版と GitHub の訳文だけです。また、タイ語で書かれたこの本への書評や批判も、この記事のための調査では見つかっていません。
Plurality の中での位置
本の英語版は、タイを取り上げていません。Cofacts は 2-2 章「デジタル民主主義の生活」に、g0v から生まれたプロジェクトとして出てきますが、タイの版には触れていません[22]。タイの Cofact は、本の外で、タンが「ほかの国にも移せる」例として語ってきたものです[17]。
タイの話は、Cofacts、g0v、vTaiwan といった台湾のシビックテックが国の外へ出ていく姿として読めます。日本のように、翻訳のコミュニティから出版、政党の政策へと続く流れは、タイではまだ見えません。
ほかの国・地域の記事:
- 日本での Plurality の広がり・韓国での Plurality の広がり・台湾での Plurality の広がり
- トルコでの Plurality の広がり・ロシア語圏での Plurality の広がり
もっと知りたい人へ
- Cofact の紹介ページ(英語・団体のページ)— https://cofact.org/about-us
- 訳者のエッセイ「Why Digital Democracy?」(英語・ブログ)— https://chusana.substack.com/p/why-digital-democracy
- タイ語訳の本文(タイ語・本、CC0)— https://github.com/chusanap/plurality-thai
- クライコンの論文(英語・論文、CC BY 4.0)— https://socialtech.or.th/archives/224
- WeVis の事例研究(英語・記事)— https://www.peoplepowered.org/news-content/wevis-supporting-participatory-democracy-in-thailand-through-locally-developed-digital-tools
出典
- chusanap/plurality-thai(GitHub のアカウント・更新の記録・ReadMe)— https://github.com/chusanap/plurality-thai [CC0]
- pluralitybook/plurality の PR #962「Thai Translation」— https://github.com/pluralitybook/plurality/pull/962
- plurality.net のソース(タイ語の設定)— https://github.com/pluralitybook/plurality.net [CC0]
- Cofact「About Us」— https://cofact.org/about-us
- Klaikong Vaidhyakarn「Civic Tech and Digital Civic Participation: Taiwan's experiences and how to replicate to Thailand」(2018、CC BY 4.0)— https://socialtech.or.th/archives/224 [CC BY 4.0]
- Thairath「“ธนาธร” คุยถูกคอ “ออเดรย์ ถัง”」(2019-06-19)— https://www.thairath.co.th/news/politic/1595486
- Devcon SEA「Keynote: ⿻ Infinite Diversity in Infinite Combinations」(2024-11-12)— https://app.devcon.org/schedule/3MNMHA
- Thairath Money のタンの講演のまとめ(2024-11-13)— https://www.thairath.co.th/money/tech_innovation/digital_transformation/2825423
- The Soulful Systems「About」— https://chusana.substack.com/about
- Chusana Prasertkul「Why Digital Democracy?」(2024-07-23)— https://chusana.substack.com/p/why-digital-democracy
- 『Plurality』タイ語版 3-0「⿻ คืออะไร」— https://plurality.net/th/read/3-0/
- 『Plurality』タイ語版 2-1「มุมมองจากหยู่ซาน」— https://plurality.net/th/read/2-1/
- タンとクライコンの対話の記録(2018-10-10、CC0)— https://github.com/audreyt/transcript/blob/main/2018-10-10-Conversation-with-Klaikong-Vaidhyakarn.md [CC0]
- 中央社によるタイでのタンへの取材の記録(2019-06-20、CC0)— https://github.com/audreyt/transcript/blob/main/2019-06-20-中央社於泰國訪問.md [CC0]
- チャッチャートの訪問の記録(2019-12-23、CC0)— https://github.com/audreyt/transcript/blob/main/2019-12-23-Chadchart-Sittipunt-visits.md [CC0]
- Cofact の公開の記事(2020-04-17)— https://blog.cofact.org/th/สกัดข่าวลวง-เปิดตัว-cofact-พื/
- タンの対話の記録集(2019〜2024、CC0)— https://github.com/audreyt/transcript [CC0]
- Cofact「5 ปี โคแฟค สู่แรงบันดาลใจที่ไต้หวัน」(2024-05-14)— https://blog.cofact.org/th/special-report-taiwan-study-trip/
- People Powered の WeVis の事例研究(2025-11-04)— https://www.peoplepowered.org/news-content/wevis-supporting-participatory-democracy-in-thailand-through-locally-developed-digital-tools
- Thailand Policy Lab の台湾のデジタル民主主義の記事(2022-08-05)— https://thailandpolicylab.com/digital-democracy-taiwan/
- The Kommon のスピンヤーへの取材 — https://www.thekommon.co/cofact/
- 『Plurality』2-2「The Life of a Digital Democracy」— https://www.plurality.net/v/chapters/2-2/eng/ [CC0]
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