ロシア語圏での Plurality の広がりってなに?
インターネットで、公園の見学ツアーのテーマや、中庭の草を刈るかどうかに投票する。モスクワでは、こうした仕組みを市が 2014 年から運営してきました。デジタルの道具で市民の声を政治に届ける、という点では、オードリー・タン(Audrey Tang、ロシア語では Одри Тан)とグレン・ワイル(E. Glen Weyl、Глен Вейл)の書籍『Plurality』の考えと似て見えます。では、ロシア語圏で、この本はどう読まれてきたのでしょうか。
ひとことで言うと
2026 年 10 月の時点で、『Plurality』のいまの版のロシア語訳は見つかっていません[1]。ロシア語で届いているのは、2022 年に公開された構想の文書のロシア語版[2]、暗号資産のメディアの紹介、ヴィタリック・ブテリン(Vitalik Buterin)のロシア語の発信くらいです。広がりはまだ薄いと言えます。
一方でロシアには、国がつくった電子アンケートや電子投票など、「参加」の仕組みがあり、それへの批判がロシア語でたくさん書かれています[3][4]。『Plurality』と比べるとき、この違いが手がかりになります。
たとえば
2022 年の構想の文書のロシア語版。 2022 年の構想の文書『Plurality: Technology for Collaborative Diversity and Democracy』には、ロシア語版『Плюральность: технология коллективного разнообразия и демократии』があります。著者は「Одри Тенг и Е. Глен Вайл」と書かれ、訳者の欄は空です。以前の plurality.net に載っていたもので、元の文書は CC0(誰でも自由に使える形)で公開されています[2]。
ブテリンの「未来のロシア」(2026 年 2 月)。 暗号資産イーサリアムの創設者ブテリンは、X(旧 Twitter)にロシア語で、平和になったあとのロシアについての考えを書きました。The Moscow Times のロシア語版は、これを意見の欄に転載し、文体はそのままで綴りだけ直したと注記しています[5]。ブテリンはそこで、クアドラティック投票や、ゼロ知識証明(ZK、中身を明かさずに正しさを示す技術)、Polis のような「分散型の政治」の考えが、理想の平和なロシアの仕組みと、いまの野党の活動の両方で、どんな役割を持てるかを論じました[5]。
DW のパネル「デジタルの鉄のカーテン」(2022 年 6 月 21 日)。 ドイツの国際放送 DW の催しで、タンは、ナワリヌイ(Alexei Navalny)陣営のレオニード・ヴォルコフ(Leonid Volkov)や、ベルリンのロシア語のテレビ局 OstWest の編集長マリア・マケーエワ(Maria Makeeva)と同じパネルに、台北からオンラインで加わりました[6]。ヴォルコフは、2021 年 9 月の下院選の前夜に、Google と Apple がロシア当局の求めに屈して、陣営の投票のアプリを取り下げたと話しました。タンは、ファクトチェックの仕組みを、感染症の接触追跡にたとえました。そして台湾では、投稿を消すのではなく、人々が一緒に学ぶ力を育てる、と述べています[6]。
くわしく
訳はまだない
本の元の置き場の複製(fork)のうち、ロシア語らしい名前を持つのは一つだけでした(このサイトによる 2026 年 10 月の暫定の数え)。けれども、その中には英語と繁体中文の本文しかありません[1]。本の公式サイトのソースは、ロシア語の言語コードを登録していますが、翻訳の中身はありません[1]。ワイルとエリック・ポズナー(Eric Posner)の前著『Radical Markets』のロシア語版も、いくつかの目録を調べた範囲では見つかっていません。
中身を伝えてきたのは暗号資産のメディア
本の中身に近いロシア語の文章を主に出してきたのは、暗号資産のメディアです。ForkLog は 2023 年に、出版社 Individuum の許可を得て、ブテリンの論集のロシア語訳『Больше денег』から一篇を載せました。その一篇は、クアドラティック投票にも触れています[7]。Incrypted も、Pol.is のような話し合いの道具に触れるブテリンの論考を訳しています[8]。
経済学者ブランコ・ミラノヴィッチ(Branko Milanović)の論考のロシア語版(2019 年)は、ポズナーとワイルのクアドラティック投票を、「1 人 n 票」の重みづけの投票の一つの案として紹介しました[9]。→ クアドラティック投票・ヴィタリック・ブテリン
報道は、タンをどう書いたか
タンを主に取り上げたロシア語の記事は多くありません。そのうちいくつかは、外国の公共放送のロシア語版です。スイスの swissinfo は 2019 年に、タンを「министр цифровых технологий」(デジタル技術の大臣)と呼び、市民参加の場 vTaiwan や Join などを紹介しました。その記事でタンは、市長や総統の選挙をオンラインではしない、と話しています[10]。
ロシアの国営通信社 ТАСС(タス)[11] は 2023 年 6 月に、タンを「глава тайваньского ведомства по цифровизации」(台湾のデジタル化の役所の長)と書きました[12]。タンのロンドン訪問の記事では、在英の中国大使館が、この面会は「一つの中国」の原則に反すると述べたことを伝え、タンの中国語の名「Тан Фэн」を添えています[13]。ただし「デジタル化の役所の長」という言い方は、DW のロシア語版も 2025 年に(「元」をつけて)使っています[14]。この言い方だけで、国営のメディアに特有の書き方だとは言えません。
国の外から出しているロシア語のメディア(DW のパネルでマケーエワやヴォルコフが「独立系」と呼んだもの)では、タンや台湾のデジタル民主主義を主に取り上げた記事は、検索した範囲では見つかりませんでした。DW のパネルでマケーエワは、その代表として Meduza を挙げています[6]。そこでは台湾は、むしろたとえとして出てきます。Новая газета Европа の報告によれば、ガルリ・カスパロフ(Garry Kasparov)は、国外の野党に「вокруг виртуального Тайваня」(仮想の台湾のまわりに)集まろうと呼びかけました[15]。
ロシアの「参加」の仕組み
モスクワ市は 2014 年から、電子アンケート「Активный гражданин」(積極的な市民)を運営しています[16]。Meduza に載ったイワン・ゴルノフ(Иван Голунов)の 2018 年の調査記事によると、この仕組みには、票の水増し、おかしな問いの立て方、すでに決まったことを追認するだけだ、という批判が出ていました[3]。
電子請願「Российская общественная инициатива」では、1 年のうちに 10 万の署名が集まると、政府の専門家の作業部会が審査します。ロシア語版 Wikipedia によると、2017 年 9 月までに 10 万に届いたのは 14 件で、実現したのは 1 件でした[17]。
インターネットを使った遠隔の電子投票(ДЭГ)にも、批判が多く出ています。ロシア語版 Wikipedia の批判の節は、2021 年の下院選での不正の疑いや、秘密投票の守りが足りないという指摘を挙げています。政治学者ウラジーミル・ゲリマン(Vladimir Gel'man)は、この仕組みを「чёрный ящик」(ブラックボックス)と呼びました[4]。テレビ局 RTVI の集計では、2021 年のモスクワの 15 の小選挙区で、電子投票を除くと 7 区でナワリヌイ陣営の「Умное голосование」(賢い投票)が推した候補が 1 位でした。電子投票を含めた結果では、推した候補は全員負けています[18]。
「賢い投票」は、政府の外で野党の票をまとめるための作戦でした。2021 年の下院選の前に、通信を監督する役所 Роскомнадзор がそのサイトを禁止の登録簿に入れました。そのあと Google と Apple がアプリをロシアのストアから外し、Telegram もボットを止めました[19]。
どこが議論になっているか
- ロシア語で書かれた『Plurality』そのものへの批判は、見つかっていません。 ここに挙げる批判の多くは、ロシアの制度に向けたもので、本に向けたものではありません。
- 国の「参加」と市民の道具は同じなのか。 市民の技術を紹介してきた団体 Теплица социальных технологий(社会技術の温室)は 2020 年に、ロシアで市民の技術の場や道具が最も多く生まれたのは 2010〜2013 年だったと書きました。そして、市民が始めた「civic tech」と、政府がつくる「govtech」を分けて考える見方を紹介しています[20]。上の「積極的な市民」や電子投票への批判は、国がつくる仕組みが、本の描く参加とは別の働きをしうることを示している、とも読めます。→ シビックテック・デジタル民主主義
- クアドラティック投票への留保。 ミラノヴィッチは、同じ数の票を何年ぶん配るのか、まだ知らない先の選挙のことをどう考えるのか、といった難しさがあると書きました。誰が投票できるかという問題は、重みづけの投票では解けない、とも述べています[9]。
- ブテリンの提案は本の主張ではありません。 2026 年の投稿は、ブテリン個人の意見です。暗号資産の世界の「悪をなしえない」仕組みという目標を、人間の社会で 100% 達成するのは非現実的で、25% でもよい結果だ、という留保もついています[5]。
Plurality の中での位置
ロシア語で届いているのは、本の全体よりも、クアドラティック投票・クアドラティック・ファンディング・Polis といった個々の道具です。伝えているのは主に ブテリン と暗号資産のメディアです。訳の状況は 本の版と翻訳 にまとめています。
タンの描かれ方は、オードリー・タン や 台湾のデジタル民主主義 の記事とつながります。国がつくる参加の仕組みと市民の道具の違いは、シビックテック の議論に関わります。
ほかの国・地域の記事:
- ドイツ語圏での Plurality の広がり・日本での Plurality の広がり・韓国での Plurality の広がり
- タイでの Plurality の広がり・トルコでの Plurality の広がり
もっと知りたい人へ
- 2022 年の構想の文書のロシア語版(ロシア語・文書、CC0)— https://github.com/johnhadaway/plurality.net/blob/main/src/site/versions/russian.md
- DW のパネルの書き起こし(英語・講演、CC0)— https://github.com/audreyt/transcript/blob/main/2022-06-21-DW-Global-Media-Forum.md
- ブテリンの投稿の転載(ロシア語・記事)— https://ru.themoscowtimes.com/2026/02/13/vitalik-buterin-esli-net-plana-kak-razrushit-armiyu-rf-do-kontsa-i-zaehat-v-moskvu-s-tankami-on-nerealistichnii-a187200
- ミラノヴィッチ「Во весь голос」(ロシア語・論考)— https://www.ipg-journal.io/ru/regiony/mir/vo-ves-golos-866/
- Теплица の civic tech の歴史(ロシア語・記事)— https://te-st.org/2020/02/07/the-main-thing-about-civic-tech/
出典
- ロシア語訳の有無の確認(GitHub の複製と plurality.net の言語の登録)— https://github.com/alxkzmn/plurality-rus-translation / https://github.com/pluralitybook/plurality.net [CC0]
- 構想の文書のロシア語版「Плюральность」(2022、CC0)— https://github.com/johnhadaway/plurality.net/blob/main/src/site/versions/russian.md [CC0]
- Meduza の «Активный гражданин» の調査記事(2018-06-25)— https://meduza.io/feature/2018/06/25/moskovskiy-servis-aktivnyy-grazhdanin-zapuskayut-na-vsyu-rossiyu-na-nem-zarabatyvayut-chinovniki
- ロシア語版 Wikipedia「Электронное голосование в России」— https://ru.wikipedia.org/wiki/Электронное_голосование_в_России
- The Moscow Times のブテリンの投稿の転載(2026-02-13)— https://ru.themoscowtimes.com/2026/02/13/vitalik-buterin-esli-net-plana-kak-razrushit-armiyu-rf-do-kontsa-i-zaehat-v-moskvu-s-tankami-on-nerealistichnii-a187200
- DW Global Media Forum のパネルの書き起こし(2022-06-21、CC0)— https://github.com/audreyt/transcript/blob/main/2022-06-21-DW-Global-Media-Forum.md [CC0]
- ForkLog「Управление: не только голосование монетами」(2023-03-21)— https://forklog.com/exclusive/upravlenie-ne-tolko-golosovanie-monetami
- Incrypted のブテリンの論考の訳(2022)— https://incrypted.com/vitalik-buterin-o-ethereum/
- ミラノヴィッチ「Во весь голос」(IPG Journal、2019-09-02)— https://www.ipg-journal.io/ru/regiony/mir/vo-ves-golos-866/
- swissinfo「Чему Швейцария и Тайвань могут поучиться друг у друга?」(2019-12-16)— https://www.swissinfo.ch/rus/%d0%b4%d0%b5%d0%bc%d0%be%d0%ba%d1%80%d0%b0%d1%82%d0%b8%d1%8f/%d1%8d%d0%bb%d0%b5%d0%ba%d1%82%d1%80%d0%be%d0%bd%d0%bd%d0%b0%d1%8f-%d0%b4%d0%b5%d0%bc%d0%be%d0%ba%d1%80%d0%b0%d1%82%d0%b8%d1%8f_%d1%87%d0%b5%d0%bc%d1%83-%d1%88%d0%b2%d0%b5%d0%b9%d1%86%d0%b0%d1%80%d0%b8%d1%8f-%d0%b8-%d1%82%d0%b0%d0%b9%d0%b2%d0%b0%d0%bd%d1%8c-%d0%bc%d0%be%d0%b3%d1%83%d1%82-%d0%bf%d0%be%d1%83%d1%87%d0%b8%d1%82%d1%8c%d1%81%d1%8f-%d0%b4%d1%80%d1%83%d0%b3-%d1%83-%d0%b4%d1%80%d1%83%d0%b3%d0%b0/45427898
- ロシア語版 Wikipedia「ТАСС」— https://ru.wikipedia.org/wiki/ТАСС
- ТАСС の OneWeb とタンの記事(2023-06-18)— https://tass.ru/mezhdunarodnaya-panorama/18051991
- ТАСС のタンのロンドン訪問の記事(2023-06-18)— https://tass.ru/mezhdunarodnaya-panorama/18053719
- DW のロシア語版のライト・ライブリフッド賞の記事(2025)— https://www.dw.com/ru/nazvany-laureaty-alternativnoj-nobelevskoj-premii-2025-goda/a-74199164
- Новая газета Европа「Записки из виртуального Тайваня」(2024-03-05)— https://novayagazeta.eu/articles/2024/03/05/zapiski-iz-virtualnogo-taivania
- ロシア語版 Wikipedia「Активный гражданин」— https://ru.wikipedia.org/wiki/Активный_гражданин
- ロシア語版 Wikipedia「Российская общественная инициатива」— https://ru.wikipedia.org/wiki/Российская_общественная_инициатива
- RTVI の 2021 年のモスクワの選挙の集計 — https://rtvi.com/stories/kak-deg-izmenilo-rezultaty-vyborov-v-moskve/
- ロシア語版 Wikipedia「Умное голосование」— https://ru.wikipedia.org/wiki/Умное_голосование
- Теплица социальных технологий の civic tech の歴史(2020-02-07)— https://te-st.org/2020/02/07/the-main-thing-about-civic-tech/
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