台湾での Plurality の広がりってなに?
書籍『Plurality』の共著者の一人、オードリー・タン(唐鳳、Audrey Tang)は台湾の人です。2016〜2022 年にデジタル担当の政務委員(無任所の閣僚)をつとめ、2022 年には新しくできた数位発展部(デジタル発展省、moda)の初代の部長になりました[1]。本の中で台湾は、考えを実際に試した場所として描かれます。では、その台湾の人たちは、この本とその考えをどう受け止めたのでしょうか。
ひとことで言うと
台湾では、Plurality は唐鳳の訳語「多元宇宙」で知られています。この語は本が出るより前に、2022 年に数位発展部の中に置かれた「多元宇宙科」という部署の名で知られるようになりました。その名と唐鳳の説明は、野党の議員から批判されました。唐鳳の説明は「誰にもわからない」とも言われました[2][3]。本の中文版《多元宇宙:協作技術與民主的未來》は 2024 年 7 月に出ました[4]。紹介の担い手は、ブロックチェーン系のメディアや読書会などでした。2024 年に部長が代わったあと、この科を抱えていた局は改称されています[5]。
台湾のデジタル民主主義そのもの(ひまわり運動や vTaiwan など)は 台湾のデジタル民主主義 の記事で扱います。ここでは「本とその考えが、地元でどう受け止められたか」を扱います。
たとえば
「多元宇宙科」をめぐる論争(2022 年 9 月)。 数位発展部は 2022 年 8 月 27 日に発足しました[6]。その「民主網絡司」(司は局にあたる)の下に、「多元宇宙科」が置かれました。唐鳳は発足前の 2022 年 7 月の面談で、この科を英語で「Section of Plurality」と呼び、Singularity(シンギュラリティ、技術の特異点)の反対だと説明していました[7]。
発足後、科の名は、映画のドクター・ストレンジが政府に勤めるのか、という議論まで呼んだと TVBS は報じています[2]。唐鳳はある番組で、科の仕事を携帯電話の番号ポータビリティ(「攜碼」、番号を持ったまま会社を替えること)にたとえました。大きなプラットフォームどうしが互いにつながるための標準を研究する、という説明です[8]。これより前の 9 月 2 日、台湾民眾黨の立法委員(国会議員)の高虹安は、9 月 1 日の唐鳳の説明は「沒人聽得懂」(誰にもわからない)と批判しました[2]。同じ党の邱臣遠は、人々にわかる言葉で話し、数位部を「宇宙部」にしないよう求めました[3]。
中文版の刊行(2024 年 7 月)。 中文版は堡壘文化から 2024 年 7 月 3 日に出ました。書店の書誌では、別の書名が「⿻ 數位 Plurality」となっています[4]。出版社は「臺灣獨家版本」(台湾だけの版)とうたい、蔡英文前総統の推薦文を載せました[1]。IT 系メディアの INSIDE は 7 月 20 日の発表会を報じ、中文版には台湾の経験とフルカラーの図解が多く収められていると書きました[9]。
くわしく
「多元宇宙」という訳語
唐鳳は 2024 年 6 月の番組で、「多元宇宙」は自分が当時つけた訳だと話しました[10]。込めた意味は二つあるといいます。
- 一つは、立場の違う人が同じ場に集まり、まとまりを作れること。これが「多元」の部分です。
- もう一つは、一つか二つの巨大企業の場に頼らず、開かれた技術で橋をかけること。唐鳳はこれを「攜碼互通」と呼び、「多個元宇宙」(いくつもの元宇宙=メタバース)と言い換えています。
二つを合わせた「多元」の「元宇宙」から、重なる「元」を一つ省いたのが「多元宇宙」だ、という説明です[10]。同じ番組で唐鳳は、科の名が理解されなかったわけを、当時は「元宇宙」と聞くと VR(仮想現実)が強く思い浮かんだからだと振り返っています[10]。
英語版の書名にある「⿻ 數位」の「數位」(デジタル)については、2026 年 8 月の対談で登壇者の Tenzin Yangtso が、台湾では「數位」は「好多個、好幾位」という複数の意味も持つ、と話しています[11]。→ 數位
誰が紹介したか
紹介の主な担い手の一つは、ブロックチェーン系のメディア、動區動趨(BlockTempo)でした。2024 年 1 月 19 日、同社のアクセラレーター(新興企業の支援拠点)Tempo X が、台北で Vitalik Buterin(イーサリアムの創設者)とグレン・ワイル(Glen Weyl、中国語では衛谷倫)を招いて論壇を開きました。記事は Plurality を、Web3 の新しい考え方やブロックチェーンなどの新技術を使って世界の協働を進める理念として紹介しています。各国語版に台湾の章「玉山視野」が入ることも強調しました[12]。
2024 年 8 月には、アジア・ブロックチェーン・サミット(ABS)の中に「Plurality Summit」が置かれました。唐鳳は開幕で「每當我們聽到奇點將至,記得 Plurality 已在此」(シンギュラリティが近いと聞くたびに、Plurality はもうここにあると思い出して)と話しています[13]。閉幕の対談では、Vitalik が X の「コミュニティノート」を、意見の違う人をつなぐ「橋渡し」の例に挙げました[14]。→ コミュニティノート
読書会もありました。台北・西門町の独立書店で開かれた読書会「web3 for all」では、2024 年 8 月の初めにワイル自身が本を語りました。この本を扱うのは 2 回目の会で、俳優のジョセフ・ゴードン=レヴィット(Joseph Gordon-Levitt)も同席したと、書き手の黄豆泥は伝えています[15]。
部長の交代のあと
数位発展部の部長は、2024 年 5 月 20 日に唐鳳から黃彥男に代わりました[6]。同じ年の 11 月 13 日、部は内部の規程を改め、「民主網絡司」を「數位國際司」に改称しました。改正の説明は、法律の定めに沿って、受け持つ仕事に合った名にするためだとしています。受け持つ仕事の条文からは「數位民主」(デジタル民主主義)の語が外れましたが、「公民科技」(シビックテック)の研究開発は残りました[5]。なお、この規程は科の名までは定めていません。「多元宇宙科」の名がいつ消えたかは、このサイトが集めた資料では確かめられていません。
2025 年 1 月の国会の委員会では、予算の科目に残っていた「民主網絡」の語が問題になりました。民進黨の李坤城は「你們現在還有民主網路司?現在不是叫數位國際司」と問いました(いまは數位國際司という名ではないのか、という問いです)。記事によれば、黃彥男部長は科目の名を改めることに応じています[16]。
唐鳳は 2024 年 10 月 7 日に無任所大使になりました[17]。2025 年 11 月のドイツの公共放送 DW の書面インタビューでは、6-Pack of Care や vTaiwan の経験を国際的に紹介していると答えています。そして、多元宇宙(Plurality)にもとづく民主主義のあり方が、AI がもたらす課題に答える最善の道だという考えを述べました[18]。→ 6-Pack of Care
日本への波及を伝える台湾の報道
台湾のメディアは、日本での広がりも伝えています。経済誌の天下雑誌は、安野貴博がネットで唐鳳の《多元宇宙》という本を見て、「廣泛傾聽」(ブロードリスニング)の考えに強く打たれたと報じました[19]。ニュースサイトの上報の取材では、チームみらいの幹事長・高山聡史が、vTaiwan や政府の政策提案サイトから「很大啟發」(大きな示唆)を受けたと話しています[20]。→ 日本での Plurality の広がり
どこが議論になっているか
- 名前と予算への批判。 2022 年には民眾黨の議員たちが、多元宇宙科の名とあわせて、数位部の予算の多さを批判しました[3]。2025 年 1 月には国民黨の羅智強が、デジタルの役所と「民主網絡」に何の関係があるのかと、予算の科目を批判しています[16]。
- 与党の側からの批判(2024 年 2 月)。 民進黨の議員や、民進黨寄りとされるメディアの人々が、詐欺や中国からの情報工作(記事は「認知戰」と書く)への対応が弱いとして、唐鳳と数位部を批判しました。記事は、これが味方の側からの攻撃だったことに注目しています[21]。
- 退任を歓迎する投書。 2024 年 4 月の投書「唐鳳走人,可喜可賀」(唐鳳が去るのはめでたい)は、唐鳳の実績を厳しく批判し、「民主網路司+多元宇宙科」を廃止するよう求めました[22]。
- 研究者や当事者の留保。 社会学者の彭松嶽(2018 年)は、シビックテックの参加にも、性別や階級などによる構造的な排除が残ると指摘しました[23]。vTaiwan に関わる崔家瑋は 2025 年、vTaiwan はいまも政府とのつながりを立て直すという課題を抱えていると書いています[24]。→ vTaiwan・Plurality への批判
- 確かめられていない話:「多元宇宙」の初出。 INSIDE の記事は、「多元宇宙」の語は唐鳳が 2016 年に初めて使ったと書いています[9]。このサイトが一次資料で確かめられた早い例は、2022 年の科の名とその説明です[7]。
よくある誤解
- 「本はブロックチェーンの本」。 ブロックチェーン系のメディアが紹介の中心だったため、そう見えるかもしれません。けれども中文版には、ビットコインのプライバシーの強みは大部分が幻想だったと述べる箇所もあります(ニュースサイト関鍵評論網に載った抜粋)[25]。
Plurality の中での位置
本は 2-1「玉山からの眺め」と 2-2「デジタル民主主義の日常」で台湾を描きます。英語版は、台湾がこの 10 年で「the world's leading example of digital democracy」になったと書いています[26]。台湾での受け止めは、本で「例」とされた側からの反応にあたります。→ 2-1「玉山からの眺め」
繁体字版の題は「多元宇宙」で、3-0 章の題は「何謂多元宇宙?」です[27]。日本語版の「プルラリティ(多元性)」とは訳し方が違います。→ ⿻ Plurality
あわせて読むとよい記事:
- 台湾のデジタル民主主義 — 本が描く台湾の実践
- g0v — 台湾のシビックテックの集まり
- 中国語圏での Plurality の広がり — 台湾の外の中国語圏
- 日本での Plurality の広がり・韓国での Plurality の広がり・タイでの Plurality の広がり・トルコでの Plurality の広がり・ロシア語圏での Plurality の広がり
もっと知りたい人へ
- 唐鳳が訳語「多元宇宙」の由来を話す番組の書き起こし(中国語・対談、2024-06-13、CC0)— https://sayit.archive.tw/2024-06-13-%E6%97%A9%E5%AE%89%E6%96%B0%E8%81%9E%E5%85%A8%E7%90%83%E4%B8%B2%E9%80%A3
- 中文版の発表会の報道(中国語・記事、INSIDE)— https://www.inside.com.tw/article/35680-audrey-tang-plurality
- 多元宇宙科の命名を話す面談の書き起こし(中国語・議事録、2022-07-20、CC0)— https://sayit.archive.tw/2022-07-20-isabel-hou-%E4%BE%86%E8%A8%AA
- 数位発展部の規程の改正(中国語・法令、2024-11-13)— https://law.moj.gov.tw/LawClass/LawHistory.aspx?pcode=K0010154
- 『Plurality』繁体字版 2-1「玉山視野」(中国語・本)— https://www.plurality.net/v/chapters/2-1/zh-tw/
出典
- 堡壘文化(讀書共和國)の書籍ページ(著者紹介・推薦文)— https://www.bookrep.com.tw/?md=gwindex&cl=book&at=bookcontent&id=18790
- TVBS「唐鳳解釋數位部「多元宇宙科」 高虹安:沒人聽得懂」— https://news.tvbs.com.tw/politics/1895042
- 遠見雜誌(聯合報)の記事(2022-09)— https://www.gvm.com.tw/article/93849
- 三民書局の書誌 — https://www.sanmin.com.tw/product/index/013324503
- 數位發展部處務規程の改正(2024-11-13、總說明と條文對照表)— https://law.moj.gov.tw/LawClass/LawHistory.aspx?pcode=K0010154
- 數位發展部「歷任部長」— https://moda.gov.tw/aboutus/ministers-since-2022/1527 [CC0]
- 「Isabel Hou 來訪」の書き起こし(2022-07-20)— https://sayit.archive.tw/2022-07-20-isabel-hou-%E4%BE%86%E8%A8%AA [CC0]
- 自由時報「多元宇宙科是什麼?唐鳳用「攜碼」比喻」(2022-09-08)— https://ec.ltn.com.tw/article/breakingnews/4052196
- INSIDE の発表会の記事(2024-07-20)— https://www.inside.com.tw/article/35680-audrey-tang-plurality
- 「早安新聞全球串連」の書き起こし(2024-06-13)— https://sayit.archive.tw/2024-06-13-%E6%97%A9%E5%AE%89%E6%96%B0%E8%81%9E%E5%85%A8%E7%90%83%E4%B8%B2%E9%80%A3 [CC0]
- 「Platform Originals:對齊的另一面」の書き起こし(2026-08-29)— https://sayit.archive.tw/2026-08-29-platform-originals-%E5%B0%8D%E9%BD%8A%E7%9A%84%E5%8F%A6%E4%B8%80%E9%9D%A2 [CC0]
- 動區動趨(BlockTempo)の Plurality 論壇の記事(2024-01-23)— https://www.blocktempo.com/glen-and-vitalik-deliver-speeches-about-plurality-and-democrazy-in-taipei/
- 動區動趨「唐鳳:Plurality多元宇宙讓世界看見台灣」(2024-08-08)— https://www.blocktempo.com/plurality-multiverse-lets-the-world-see-taiwan/
- 動區動趨の閉幕対談の記事(2024-08-09)— https://www.blocktempo.com/vitalik-buterin-and-audrey-tang-fireside-blockchain-can-serve-as-a-sandbox-for-democratic-governance/
- 黃豆泥「重混、共創、HITRECORD」(典藏 ARTouch、2024-08-29)— https://artouch.com/artouch-column/mintmint-column/content-153243.html
- CM Media の記事(2025-01-02)— https://www.cmmedia.com.tw/home/articles/51631
- 中央社「戴資穎、唐鳳等任無任所大使」(2024-10-07)— https://www.cna.com.tw/news/aipl/202410070242.aspx
- DW 中文の唐鳳への書面インタビュー(2025-11)— https://www.dw.com/zh-hant/%E7%94%9F%E6%88%90%E5%BC%8Fai%E6%89%93%E6%93%8A%E6%B0%91%E4%B8%BB%E5%94%90%E9%B3%B3%E5%85%AC%E6%B0%91%E5%8F%83%E8%88%87%E5%BC%B7%E5%8C%96%E6%B0%91%E4%B8%BB%E9%9F%8C%E6%80%A7/a-74700245
- 天下雜誌の未來團隊(チームみらい)の記事(2026-04-20)— https://www.cw.com.tw/article/5140605
- 上報の高山聡史への取材(2026-04-04)— https://www.upmedia.mg/tw/international/headlines/255292
- Fount Media の記事(2024-02-19)— https://www.fountmedia.io/article/209094
- 風傳媒の投書「唐鳳走人,可喜可賀」(2024-04-22)— https://www.storm.mg/article/5095094
- 彭松嶽「G0V可以解決政府與民眾的資訊落差嗎?」(關鍵評論網、2018-12-07)— https://www.thenewslens.com/article/107700
- 崔家瑋の vTaiwan についての文章(Friedrich Naumann Foundation、2025-01-14)— https://www.freiheit.org/zh/taiwan/gongzhongcanyukeyiruherangrengongzhihuibiandegenghaovtaiwan-dejingyan
- 關鍵評論網の書摘「比特幣經常被吹捧的隱私優勢,在很大程度上被證明是幻覺」— https://www.thenewslens.com/article/205567
- 『Plurality』2-1「A View from Yushan」(英語版)— https://www.plurality.net/v/chapters/2-1/eng/ [CC0]
- 『Plurality』繁体字版 3-0「何謂多元宇宙?」— https://www.plurality.net/v/chapters/3-0/zh-tw/ [CC0]
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