イスラエルでの Plurality の広がりってなに?
意見が大きく割れた社会で、ネットの道具を使えば、人はもっと落ち着いて互いの話を聞けるようになるのでしょうか。2023 年、イスラエルの新聞の記者が、台湾のオードリー・タン(Audrey Tang、ヘブライ語では אודרי טאנג)に、まさにそう尋ねました。この記事では、タンとグレン・ワイル(E. Glen Weyl)の書籍『Plurality』と、そこにつながる話題が、イスラエルでどう語られてきたかをたどります。
ひとことで言うと
この記事のための調査では、書籍『Plurality』のヘブライ語訳は見つかっていません[1]。本やワイルを取り上げたヘブライ語の報道も、見つかっていません。
見つかったのは、タンへの取材や紹介と、X(旧 Twitter)の Community Notes(ヘブライ語で「הערות הקהילה」)についての報道です[2][3]。ただし、イスラエル国立図書館の目録は、アクセスが弾かれて使えませんでした。ですから、ヘブライ語訳が無いとまでは言い切れません。
たとえば
テルアビブでの取材(2023 年 6 月 28 日)。 イスラエルの新聞 Yedioth Ahronoth の記者が、タンに話を聞きました。記者は、左右の政治の対立で、毎週土曜にこのあたりは大勢の人が通りに出て閉ざされる、と話しました。そして「If we take this instrument to our democracy in Israel, do you think this is going to be much more polite for people to listen to each other」(この道具をイスラエルの民主主義に持ち込んだら、人々はもっと礼儀正しく互いの話を聞くようになると思うか)と尋ねています[2]。
タンの答えは、抽象的な話題ではこの道具は働かない、というものでした。「This tool only works when you talk about the specific case」(この道具は、具体的な事例について話すときにだけ働く)。台湾の同性婚の議論では、結婚の定義ではなく、まだ生まれていない子の福祉と権利という具体的な問いを選んだ、と話しています[2]。なお、記録の中で記者は、どの抗議のことかを名指ししていません[2]。
首相の投稿への注記(2024 年 12 月)。 TheMarker の記者 רפאלה גויכמן(ラファエラ・ゴイフマン)によると、Community Notes はその 1 年前にイスラエルでも使われ始めました。首相ベンヤミン・ネタニヤフの投稿には、直近 2 か月で 13 件の注記が付いた、と書いています[3]。→ Community Notes
くわしく
本と訳
本の GitHub の「fork」(写しを作って手を入れたもの)は 160 件あります(このサイトによる 2026 年 10 月の暫定の数え)。その中に、ヘブライ語のディレクトリは 1 つもありませんでした。本のサイト plurality.net の言語の一覧にも、ヘブライ語(he)はありません[1]。
ヘブライ語の Google ニュースで「גלן וייל」「Glen Weyl」を検索しても、ワイル本人についての記事は出てきませんでした。ヘブライ語版 Wikipedia にも、ワイルの記事はありません。→ 本の版と翻訳
タンはどう紹介されたか
ヘブライ語の報道は、台湾のコロナ対策と、デジタルの公共空間を中心にタンを紹介してきました。
- Globes(2020 年 10 月)。 Globes の אופיר דור(オフィル・ドール)は、Skype でタンに取材しました。タンが台湾のコロナ対策を「מהיר, הוגן ומהנה」(速く、公平に、楽しく)の三つにまとめる、と書いています[4]。
- INSS の会議(2021 年)。 国家安全保障研究所(INSS)の Lipkin-Shahak 会議で、副所長の איתי ברון(イタイ・ブルン)と研究員の תומר שדמי(トメル・シャドミ)がタンに話を聞きました。研究所の報告は、台湾は国家安全保障と透明性を競うものではなく補い合うものと見ており、「ביטחון לאומי באמצעות שקיפות」(透明性による国家安全保障)という方針をとる、とまとめています[5]。
- The Seventh Eye(2021 年 10 月)。 The Seventh Eye(העין השביעית)に、シャドミがこの取材をもとに台湾の参加の仕組みを紹介する論考を書きました。そこでは、Facebook を「מועדון לילה」(ナイトクラブ)にたとえ、公共の議論には向かない場所だとするタンの言葉を引いています[6]。
タンとイスラエルの聞き手との対話の記録も残っています。2021 年のネタ・ハルペリン(Neta Halperin)との対話では、聞き手が、タンが加わった台湾の抗議はイスラエルでの抗議ととても違う、と述べました[7]。
これとは別の 2020 年 11 月、ミハエル・トゥフフェルト(Michael Tuchfeld)との対話では、人々の協力を得るには信頼を得なければならないのでは、と問われました。タンは「No」と答え、むしろ政府が市民を信頼し、国の側を市民に対して透明にすることが大事だ、と話しています。透明性・参加・説明責任・包摂の四つは「are all the state’s duties to the citizens」(すべて国が市民に負う務めだ)とも述べました[8]。
Community Notes をめぐる報道
Community Notes についてのヘブライ語の報道には、2023 年に始まったイスラエルとハマスの戦争の中での偽情報を扱うものがあります。
Calcalist の עומר כביר(オメル・カビール)は 2023 年 10 月、テクノロジー誌 Wired の調査報道を紹介しました。記事によると、Wired の調査は、戦争中の偽情報への対処に Community Notes が役立っておらず、かえって問題を悪化させているかもしれない、と伝えています[9]。
TheMarker(2024 年 1 月)によると、イスラエル・インターネット協会(ISOC-IL)は Community Notes の特徴を調べました。そして、偽情報と闘いたいイスラエルの利用者に向けた手引きの報告書を出しています[10]。
民主主義を作り直す議論
2026 年 5 月の Calcalist の取材で、憲法と比較法の専門家 ליאב אורגד(リアヴ・オルガド)は、民主主義を改良する案をいくつも挙げました。代表に票を預けたり取り戻したりできる液体民主主義(דמוקרטיה נוזלית)、人々が何に同意しているかを探すアルゴリズム、どれだけ強く望むかを測る投票などです[11]。→ リキッド・デモクラシー
そのうえでオルガドは、市民社会とリベラルな政党が主導する運動の例として、「להשתמש בפלטפורמות AI כדי להראות על מה 80% מהישראלים מסכימים 80% מהזמן」(AI の場を使って、イスラエル人の 80% が 80% の時間に何に同意しているかを示す)ことを挙げました。2014 年の台湾の抗議のあと、抗議の側が作ったデジタルの道具が、政策づくりの公式の道具になった例にも触れています。ただし、記事にはタンの名前も、意見の分布を描く道具 Polis の名前も、本の名前も出てきません[11]。
先にあった市民テック
イスラエルには、もともと市民がつくる技術(市民テック)の団体があります。ヘブライ語版 Wikipedia によると、הסדנא לידע ציבורי(Hasadna、「公共知識のワークショップ」)は 2011 年にできた団体です。それより前に、国会の活動を見えるようにする Open Knesset(2009 年)と、Open Budget(2010 年)が公開されていました[12]。
2024 年の地方選挙の前には、Hasadna の「מפתח התקציב」(予算の鍵)というプロジェクトの אדם קריב(アダム・カリヴ)が、自分の町をよく似た自治体と比べられるサイトを公開しました[13]。→ シビックテック
ただ、Hasadna を台湾の g0v やタンと結びつけた資料や、イスラエルで Polis が使われた例は、この記事のための調査では見つかっていません。
どこが議論になっているか
- Community Notes への疑問。 Calcalist が紹介した Wired の調査は、この仕組みが外のグループに操作されやすく、内部では主導権争いがある、と伝えました[9]。
- ファクトチェックをやめることへの見方。 一方、ynet の טל שחף(タル・シャハフ)は 2025 年 1 月、Meta が第三者によるファクトチェックをやめることについて論じました。シャハフは、ネットの投稿を取り締まるのは営利企業がすべき仕事ではないという立場から、やめること自体はとうの昔にそうすべきだった、と書きました。ただし、いまやめる理由は正しくない、とも書いています[14]。
- 抗議と Plurality の道具。 2023 年の取材で記者がイスラエルの抗議に触れたことはあります[2]。けれども、イスラエルの抗議やその分断に Polis などの Plurality の道具が使われた、という記録は、この記事のための調査では見つかりませんでした。
- 調べられた範囲。 イスラエル国立図書館の目録は使えず、出版社の目録や、一部の新聞・研究所のサイト内検索はまだ見ていません。ヘブライ語訳や議論が「無い」と言い切れるわけではありません。
Plurality の中での位置
イスラエルの資料で語られるのは、主に本が紹介する実践の側です。台湾の vTaiwan、意見の違いを越えた一致を探す ブリッジング、Community Notes、リキッド・デモクラシー が出てきます。
今回の資料で本の語「plurality」が出てくるのは、2023 年の取材の一か所だけでした。タンはそこで、5 年後には「this politics of building bridges, of what I call plurality, building collaboration across diversity」(橋をかける政治、私が plurality と呼ぶもの、多様さを越えた協働を築くこと)がずっと主流になるだろう、と述べています[2]。人物として出てくるのは オードリー・タン だけで、グレン・ワイル の名前は見当たりませんでした。
近くの言語圏の記事:
もっと知りたい人へ
- Yedioth Ahronoth の取材の全文(英語・対話記録、CC0)— https://github.com/audreyt/transcript/blob/main/2023-06-28-Interview-with-Yedioth-Ahronoth.md
- ヘブライ語版 Wikipedia「הסדנא לידע ציבורי」(ヘブライ語・事典)— https://he.wikipedia.org/wiki/%D7%94%D7%A1%D7%93%D7%A0%D7%90_%D7%9C%D7%99%D7%93%D7%A2_%D7%A6%D7%99%D7%91%D7%95%D7%A8%D7%99
- INSS の会議の報告(ヘブライ語・報告)— https://www.inss.org.il/he/publication/lipkin-shahak-annual-3/
- シャドミの論考(ヘブライ語・論考、The Seventh Eye)— https://www.the7eye.org.il/433894
- ネタ・ハルペリンとの対話(英語・対話記録、CC0)— https://github.com/audreyt/transcript/blob/main/2021-09-30-Interview-with-Neta-Halperin.md
- オルガドへの取材(ヘブライ語・記事、Calcalist)— https://www.calcalist.co.il/magazine/article/4hjygl7ma
出典
- 本のリポジトリの fork の一覧 — https://github.com/pluralitybook/plurality/forks [CC0]
- Interview with Yedioth Ahronoth(2023-06-28)— https://github.com/audreyt/transcript/blob/main/2023-06-28-Interview-with-Yedioth-Ahronoth.md [CC0]
- TheMarker「ציוצים של נתניהו תויגו כשקרים, והערות הקהילה ב-X הפכו לזירת הקרב החדשה」(2024-12-25)— https://www.themarker.com/captain-internet/2024-12-25/ty-article/.premium/00000193-fe1c-db47-a3d3-fe5e07bd0000
- Globes「שרת הדיגיטל של טיוואן מציגה: כך ניצחנו את הקורונה」(2020-10-10)— https://www.globes.co.il/news/article.aspx?did=1001344859
- INSS「אמון, אמת וביטחון לאומי: הקרב על התודעה בעידן הדיגיטלי - סיכום כנס ליפקין-שחק 2021」(2021-12-09)— https://www.inss.org.il/he/publication/lipkin-shahak-annual-3/
- The Seventh Eye「המודל הדמוקרטי לטיפול בפייסבוק חי ובועט בטייוואן」(2021-10-27)— https://www.the7eye.org.il/433894
- Interview with Neta Halperin(2021-09-30)— https://github.com/audreyt/transcript/blob/main/2021-09-30-Interview-with-Neta-Halperin.md [CC0]
- Interview with Michael Tuchfeld(2020-11-05)— https://github.com/audreyt/transcript/blob/main/2020-11-05-Interview-with-Michael-Tuchfeld.md [CC0]
- Calcalist「תחקיר: הכלי המרכזי של X להתמודדות עם פייק ניוז – כושל」(2023-10-24)— https://www.calcalist.co.il/calcalistech/article/bkhlq7sma
- TheMarker「הערות הקהילה של טוויטר: הטוב, הרע ואיך לעשות את זה נכון」(2024-01-24)— https://www.themarker.com/captain-internet/2024-01-24/ty-article/0000018d-366e-dbf8-abdf-be7eccab0000
- Calcalist のオルガドへの取材(2026-05-07)— https://www.calcalist.co.il/magazine/article/4hjygl7ma
- ヘブライ語版 Wikipedia「הסדנא לידע ציבורי」— https://he.wikipedia.org/wiki/%D7%94%D7%A1%D7%93%D7%A0%D7%90_%D7%9C%D7%99%D7%93%D7%A2_%D7%A6%D7%99%D7%91%D7%95%D7%A8%D7%99 [CC BY-SA 4.0]
- Shakuf「לפני הבחירות, לחצו וגלו: איך העיר שלכם בהשוואה לאחרות?」(2024-02-19)— https://shakuf.co.il/47817
- ynet「מטא ויתרה על תפקיד השוטר וזה לאו דווקא רע」(2025-01-08)— https://www.ynet.co.il/digital/technews/article/h111ujmhiyl
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