J・C・R・リックライダー(J. C. R. Licklider)ってどんな人?
いま私たちが毎日使っているインターネットは、もともとどんな夢から始まったのでしょうか。書籍『Plurality』は、その夢を描いた人の一人として、音の聞こえ方を研究していた心理学者に光を当てます。リックライダーの夢の多くはまだかなっていない、というのが本の見立てです。
ひとことで言うと
J・C・R・リックライダー(J. C. R. Licklider)は、アメリカの心理学者です。専門は、音がどう聞こえるかを調べる心理音響学でした。1960 年代、米国防総省の研究機関 ARPA で情報処理技術局(IPTO)を率い、大学どうしをつなぐ計算機のネットワーク、つまりのちのインターネットの種をまきました。通称は「リック(Lick)」です[1]。
書籍『Plurality』は、3-3 章「失われた道」でリックライダーを中心人物に据えています。5-6 章では「失われた道の章の、私たちのヒーロー」と呼んでいます[1][2]。
Plurality とのかかわり
3-3 章の冒頭の言葉。 3-3 章は、リックライダーの論文「コンピュータと政府」の一文から始まります。日本語版の訳は次のとおりです[3]。
コンピュータ技術の開発と活用に関する決定は、「公共の利益」のためだけではなく、国民自身が自分たちの将来を形作る意思決定プロセスに参加する手段を与えるために行われなければならない。
本は 7-0 章「政策」でもこの一文をくり返し、技術の正統性は軍や技術官僚ではなく、公衆の関与から得るべきだ、という理由にしています[4]。
心理学から計算機へ。 本によれば、リックライダーは 1942 年に心理音響学で博士号を取りました。航空などで人と機械が緊迫したやりとりをする場面を研究するうちに、「計算する機械」との対話に関心を移します。MIT ではリンカーン研究所などの創設に加わり、MIT から生まれた会社 BBN の副社長にもなりました[1]。
人間とコンピュータの共生。 1960 年の論文「人間とコンピュータの共生(Man-Computer Symbiosis)」で、リックライダーは、機械はいずれ多くの点で人間の脳を上回るかもしれないが、それまでには人と計算機が協力して大きな進歩をとげる長い時代がある、と書きました。本によれば、リックライダーはその時代を人類の歴史で最も知的に創造的でわくわくする年月になるだろう、と見ていました[1]。→ 協働テクノロジー
「銀河間コンピュータ・ネットワーク」。 リックライダーは ARPA の第 2 代局長ジャック・ルイナのもとで、新しくできた IPTO を任されました。ARPA にいたのは 2 年だけでしたが、その後 40 年の土台を作った、と本は書きます[1]。
リックライダーはアメリカ各地の大学に、一台の計算機を大勢で使う「タイムシェアリング」の研究を広げました。支援したスタンフォード、MIT、カリフォルニア大学バークレー校、UCLA、カーネギーメロンは、のちに計算機科学の中心になります。マウスなどを生んだダグラス・エンゲルバートの研究所も支えました。そして各地の研究拠点の協力の網を、冗談まじりに「銀河間コンピュータ・ネットワーク」と呼び、計算機を通じた協働と共同の統治のお手本になることを願いました[1]。本の 4-4 章は、1963 年のこのメモの中心の狙いが、計算の力や記憶装置、データといったデジタルの資産を共有することだった、と読み直しています[5]。→ 財産と契約
通信装置としてのコンピュータ。 リックライダーが去ったあと、同じく心理音響学を研究していたロバート・テイラーが IPTO に移り、やがてその責任者として、BBN に ARPANET の最初の試作を頼みました。1968 年、二人は論文「The Computer as a Communication Device(通信装置としてのコンピュータ)」で、パソコンやインターネット、スマートフォンの文化を先取りした、と本は書きます[1]。
本の 4-2 章はこの論文から、ネットの共同体は「場所ではなく共通の関心の共同体」になる、という考えを引きます。二人が心配したのは、「オンラインにいること」が特権ではなく権利になるようにすることだけだった、とも紹介しています[6]。→ ⿻ 公衆
二つのシナリオ。 本によれば、インターネットの基本の約束ごと(TCP/IP)がまとまりつつあった頃、リックライダーは「コンピュータと政府」で、計算機の未来には二つの道があると見ました。独占企業に支配されて可能性がつぶされる道と、社会全体が動いて計算機を民主主義に役立てる道です[1]。前者で起きる害として、リックライダーは次の 8 つを挙げました(日本語版の訳)[3]。
- 監視が広まり、国民の政府への不信が深まる。
- 政府が国民の使用する主流の技術に遅れをとってしまい、規制や法律執行能力が麻痺。
- クリエイティブな職業の品位低下。
- 独占と企業による搾取。
- デジタル誤情報が広まる。
- 情報のタコツボ化により、ネットワークの可能性の多くが損なわれる。
- 政府のデータと統計がますます不正確でどうでもよくなる。
- 言論と公共の議論のための基本的なプラットフォームが民間企業に支配される。
本は、のちの巨大テック企業への反発は、この警告とよく似ていた、と書きます[1]。
実現しなかった層。 本によれば、リックライダーがこの論文を書いたきっかけは、ARPA の関心がネットワークの支援から兵器に近い研究へ移ったことでした。リックライダーや テッド・ネルソン が欠かせないと考えた ID、プライバシーとセキュリティ、資産の共有、商取引といった層は、結局インターネットに組み込まれませんでした。リックライダーは 1990 年に亡くなっています[1][3]。
第 4 部の出発点。 本の 4-0 章は、リックライダーは今のインターネットの約束ごとよりずっと広い基本の約束ごとが、ネットワーク社会の土台になると見ていた、と書きます。ただしそれは哲学的な分析というより項目の一覧だったので、⿻ の考えからそれを整理し直すのが第 4 部だ、としています[7]。→ 権利 OS
「騒がしい部屋」のたとえ。 5-6 章の投票の話は、リックライダーが研究した現象をたとえに使います。騒がしい部屋でも相手の声が聞き取れる理由の一つは、関係のない雑音がならすと打ち消し合うことだ、というものです[2]。
最も成功した産業政策。 7-0 章は、リックライダーの IPTO を、おそらく米国史上、いや世界史上で最も成功した産業政策だと評します。ただしリックライダーの狙いは地域の振興ではなく、人と計算機の共生、攻撃に強いネットワーク、通信装置としての計算機という未来像の実現でした。本は、⿻ はリックの「まだまったく完成していない構想」の上に築かれる、と書いています[4]。一方で、ARPA の型は軍が中心だったので、今のデジタルの暮らしには合わない点がある、とも述べています[4]。
版による年の違い。 「コンピュータと政府」の年は、英語版では 1980 年、日本語版と繁体字版では 1979 年と書かれています[1][3]。
主な考え
本と周りの人々の説明によると、リックライダーの考えは次の四つにまとめられます。
- 人間とコンピュータの共生:AI が人に取って代わる前に、人と計算機が協働する長い時代がある[1]。
- 通信装置としてのコンピュータ:計算機は、共通の関心でつながる共同体を結ぶ道具になる[6]。
- 公衆が決定に加わる手段:技術の進む方向を、公衆自身が決められるようにする[3][4]。
- 二つのシナリオ:計算機の未来は、独占に向かうか、民主主義に仕えるかに分かれる[1]。
著者たちと周りの人々の言葉
- グレン・ワイル。 2022 年の書評「Sovereign Nonsense」で、ワイルは、『The Sovereign Individual』が描く技術の未来像のほとんどは、リックライダーの「コンピュータと政府」などの研究論文にすでに現れていた、と書き、リックライダーをおそらくインターネットの最初の創設者だと評しました[8]。同じ年のポッドキャストでは、ここ 60〜70 年で最も影響の大きな技術は、ユーザー体験の研究者の網として始まったリックライダーとエンゲルバートのプロジェクトから生まれた、と語っています[9]。
- DeSoc 論文(2022 年)。 プジャ・オールハーバー、ワイル、ヴィタリック・ブテリンは、分散型社会(DeSoc)がリックライダーの「銀河間コンピュータ・ネットワーク」での「人間とコンピュータの共生」という構想を後押しする、と書いています[10]。
- reverse alignment(2026 年)。 ワイルらの Noema の論考は、リックライダーが率いた ARPANET と、それと並んで育ったオープンな標準づくりを、技術と制度が切り離せない先例として挙げました[11]。→ reverse alignment
- 6-Pack of Care。 タンの 6-Pack of Care は、第 6 のパック「共生」の言葉の由来の一つに、リックライダーの「人間とコンピュータの共生」を挙げます。第 3 のパックでも、Civic AI を人の「置き換え」ではなく「見習い」とする考えの系譜に、この論文を置いています[12][13]。
- 日本語の紹介。 ryo の note は、リックライダーたちが構想した ID の確認や決済、安全なデータ共有といった、手間がかかって儲からないが社会に欠かせない機能が作られないまま放置され、その結末をリックライダーが 8 つの未来として予見していた、と本の議論を紹介しています[14]。
もっと知りたい人へ
- 『Plurality』3-3「失われた道」(日本語・本)— https://www.plurality.net/v/chapters/3-3/jpn/
- ryo「『Plurality』って何?」(日本語・ブログ)— https://note.com/ryryo/n/nd2ad711aee5d
- J. C. R. Licklider「Man-Computer Symbiosis」(英語・論文、1960)— https://groups.csail.mit.edu/medg/people/psz/Licklider.html
- J. C. R. Licklider「Memorandum For Members and Affiliates of the Intergalactic Computer Network」(英語・メモ、1963)— https://worrydream.com/refs/Licklider_1963_-_Members_and_Affiliates_of_the_Intergalactic_Computer_Network.pdf
- 『Plurality』7-0「Policy」(英語・本)— https://www.plurality.net/v/chapters/7-0/eng/
出典
- 『Plurality』3-3「The Lost Dao」— https://www.plurality.net/v/chapters/3-3/eng/ [CC0]
- 『Plurality』5-6「⿻ Voting」— https://www.plurality.net/v/chapters/5-6/eng/ [CC0]
- 『Plurality』日本語版 3-3「失われた道」— https://www.plurality.net/v/chapters/3-3/jpn/ [CC0]
- 『Plurality』7-0「Policy」— https://www.plurality.net/v/chapters/7-0/eng/ [CC0]
- 『Plurality』4-4「Property and Contract」— https://www.plurality.net/v/chapters/4-4/eng/ [CC0]
- 『Plurality』4-2「Association and ⿻ Publics」— https://www.plurality.net/v/chapters/4-2/eng/ [CC0]
- 『Plurality』4-0「Rights, Operating Systems and ⿻ Freedom」— https://www.plurality.net/v/chapters/4-0/eng/ [CC0]
- E. Glen Weyl「Sovereign Nonsense」(2022-01-18)— https://www.radicalxchange.org/updates/blog/sovereign-nonsense/
- Hear This Idea「Glen Weyl on Pluralism, Radical Markets, and Social Technology」(2022-03-15)— https://hearthisidea.com/episodes/glen/
- Ohlhaver, Weyl, Buterin「Decentralized Society: Finding Web3's Soul」(2022)— https://papers.ssrn.com/sol3/papers.cfm?abstract_id=4105763
- E. Glen Weyl, James Evans, Chris White「What Humanity Needs To Flourish In The Next Decade」(Noema、2026-07-21)— https://www.noemamag.com/what-humanity-needs-to-flourish-in-the-next-decade/
- 6-Pack of Care「Pack 6: Symbiosis」— https://civic.ai/6/ [CC0]
- 6-Pack of Care「Pack 3: Competence」— https://civic.ai/3/ [CC0]
- ryo「『Plurality』って何? Web2.0 の夢を+AI でやり直す」— https://note.com/ryryo/n/nd2ad711aee5d
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