直前の文章の記憶(残像)が残っていることが文章の理解を促すので、ゆっくり読み過ぎると逆に理解が妨げられる

アイディアのレッスン (ちくま文庫) 外山 滋比古 204p_448042685X.txt 150: 結びつけるものがあるはずである。これが仮説である。ことばにおける非連続の連続を支える作用が仮説になった。しかし、それだけでは、少しも前へ進めない。あるとき、郊外のバスをおりて歩いていると、麦畑の向こうから、琴の音が風にのって聞えてきた。とっさに、これだと思った。琴の音は一つひとつ切れている。しかし、こうしてはなれて聞くと、ひとつらなりのように聞こえる。前の音のひびきが次の音にかぶさり、二音の間の空自が埋められることに気がついた。これで非連続の連続の原理のようなものが垣間見えた。しかしまだすぐには仮説とはならなかった。どれくらいそのままにしていたか覚えていないが、寝かせていたのであろう。あるとき急にまたおもしろくなってきて、映画のフィルムが、一つひとつ静止しているのに、続けて映写すると、切れ日は消え、ひとつながりの動画になる。これとさきの連続との間にアナロジーを認めることができた。そして、ことばには修辞的残像をおこす性質があるという仮説ができ上がった。前のことばの残像が消えないうちにつぎのことばが続くと、はなればなれのことば、 185:文章にまとまると、その切れ目が消えて、動きを生ずるのは、残像の作用によるものだと解する。映画は生理的残像によっているが、文章は、ことばの持つ心理的残像作用であるから、これを、修辞的残像という名の仮説にした。つまりC ¨χのχが言語的残像作用だということを考えたのである。アナロジーの方法は、きわめて豊かなアイディアの温床 である。これをマスターすればアイデイアを生み出すのはむずかしくない。183 Ⅲ アイデイアのつくり方

乱読のセレンディピティ 外山 滋比古 205p_4594069967.txt 5:6乱読の意義反常識的読書P/アルファー読みとベーター読み7./ジャンルにとらわれない74/乱読の入門テキスト77/失敗をおそれない79 7セレンディビティ思いがけない」とを発見する能力82/読書の化学反応85/1旅行記』88 81ガ共^0『修辞的残像』まで私の乱読94/アナロジーの方法97/ことばの非連続の連続99/乱読の効用@ィビティ思 95:勒顆(R〉『修辞的残像』まで 102:英語の例でいうと、…。これまでの英文法では、…索引 によって合理化しようとしてきた。 私の考えは索引ではなく、残像の働きで、この破格がおこっているとした。複数易の残像が動詞に及んで、3くのを引き出したとした。.この残像に修辞的残像という名をつけた。修辞的残像を認めると、さきの例文のような例のほか、いろいろなところで、その作用,クを認められることがわかった.たとえば、辞書首っぴきでも難しい外国語の文章が、いくら語義をしらべても意味がはっきりしないことがある。そういうときに、そのことばを母国語とする人に自然の速さで音読してもらうと、ほかに何の説明を受けないでも、意味がわかる(cid:8270)これも、辞書首っぴきのようにノロノロした読み方では、残像がはたらかないからである。残像は一瞬で消えるから、精読、解読などでははたらきにくい。外国語の読みはていねいすぎると、ゆっくりすぎて、自然にはたらく残像作用を殺してしまい、実際以上、わかりにくいものにしている、ということができる。日本語の得意とする余韻も、残像作用によるところが大きい。古池や蛙とび込む水の音芭蕉という句で考えてみる。…俳句は意識しないで修辞的残像を存分に生かした詩型であるということができる。

乱読の効用修辞的残像の仮説は、寺田寅彦「科学者とあたま」に見られるアナロジーを用いてつくり上げたものだが、そのアナロジーは、ただおもしろく読んだ乱読によって学んだものである。私は、改まって、アナロジーの方法ということを教わったことはないから、それ自体、私にとっては乱読によるセレンディビティだと言ってよい。ことばのイメージ、ひびき、余韻といった残曳作用は、ゆきずりの読書において得られるようである。せまい専門分野の本ばかり読んでいると、われわれの頭はいつしか不活発になり、クリエイティヴでなくなる。模倣的に傾くように思われる。それにひきかえ、軽い気持ちで読み飛ばしたものの中に、意外なアイディアやヒントがかくれていることが多いじ乱読の効用であるように思われる。専門バカがあらわれるのも、タコツボの中に入って同類のものばかり摂取しているからで、ツボから出て大海を遊泳すれば豊かな幸にめぐりあうことができる。乱読のよいところは、速く読むことである。専門、あるいは知識を得るための読書は知らず知らずのうちに遅読になりやすい。ことばは、さきにのべたように、残像をともなっている。時間的現象であるから、丁寧な読書では、残像に助けられる読みが困難である。その点で、精読者は談話に及ばないところがある。話す言葉はある速度をもつている。知的な話し上手ほどテンポが速いといわれるのはおもしろいことで、ゆつくりしたことばの情緒的効果は貴重であるが、新しいことを考えたり、オリジナルであることは難しい。文字に書かれることばは、一般に、話されることばよリテンポがゆるやかである。それを読むのは、話されることばのテンポより速いことはもっとも注目されてよい。ことばのテンポということからすれば、読者は筆者より優位に立っている。難しいからといつてナメルように読むのは、賢明ではない。実際にナメルように読むのを推賞する人が少なくないが、一考を要す。181『修辞的残像』まで り優位に立っている。

思考の整理学 (ちくま文庫) 外山 滋比古 223p_4480020470.txt 65:理屈である。なお、もうひとつ注意しなくてはならない点一がある。慣性にしても、残像にしても、いつまでも続くわけではない。しばらくすると消滅してしまう。ゅっくり 動いている物体においては、信軽」ははっきりしない。映画のフィルムもごくゆっくり映写すると、画面一は明滅して、介在する空白部がスクリーン上に自く写し出され、連続感は崩れてしまう。ことばでも、流れと動きを感じるのは、ある速度で読んでいるときに限る。難¨解な文章、あるいは、辞書首っびきの外国語などでは、部分が゛ハラ゛雀フにな って、意味がとりにくい。残像が消滅一してしまい、切れ目が埋められないからである。そういうわかりにくいところを、思い切って速く読んでなると、かえって、室(外、よく わかったりする。残像が生きて、部分が全体にまとまりやすくなるためであろう。このようにして、文章の中のことばとことばが、離れ離れになりながらも、ひと続きになるのは、残像のはたらきであるということに気付いて、長い間のわたくしの野(間は、自分では、豆争に解決したように思った。文章の韮刻連続の連続を支えている、この総籍墜作用の ことを、修辞謁]残像と名づけた。文章上に起っている残像というほどの意である。以上、こまかく、修辞的残像の考えの生れるまでの過程をのべたのは、着想を得るまでの63ア ナロジー具体例になるかと考えたからにはかならない。ここで見られるのは、アナロジーである。文章における非連続の連続の謎を、映画のフィ