KJ法だけ習得しても花火日報を身につけていないと毎日の実践が困難

KJ法 渾沌をして語らしめる p.264-265 にて。 花火日報とは、探検ネットを毎日の日記や日報として使うもの。 サラリと書いてあるけど花火(探検ネット)についての記述がない「発想法」だけ読んだ人にとっては寝耳に水の発言だと思う。「えっ、じゃあ花火日報を先に教えてよ!」となるのでは。

毎日の反芻のひとつの用途の例として、大学生が講義のノートを、花火日報式にとるという方法がある。少なくも、幾種かの講義については、実行できる。その結果は、退屈していた講義が、退屈どころではなくなる。 速記まがいの筆記の必要はなくなる。その代り、先生のいわんとするところを傾聴せねばならない。しかし同時に、それはおもしろいことである。その点メモを花火日報化するときに、内容が非常にこなれ、発想も刺戟される。つまり、理想的な復習になるのである。成績は自然によくなる。 はりあいがでるので、その原理を予習にまで拡大するようになるかもしれない。最後には、主体的に探究する姿勢の確立にまで立ち至るだろう。 これは、日本のようにツメコミ勉強、殊に受験勉強で人格まで歪まされ欲求不満に陥っている若者の圧倒的に多い社会にとっては、じつに重大事である。もちろん、花火日報だけでなく、本格的なKJ法を身につけておくことは、それ以上に大切なことである。しかし、KJ法だけ習得していても、花火日報も身につけていないと、学生たちは毎日の実践の中にKJ法を使いこなし切ることがむずかしいと思う。 花火日報が踏み台になって、KJ法はよりよく生かされるだろう。

ちなみにこんなことを言ってるけど川喜田二郎本人の作成枚数は2〜3日に1枚程度なので、花火日報を毎日書くことはしてなさそう。フィールドワークの最中だけやってたりするのかな?

from 探検ネット(花火)勉強会