KJ法勉強会@ロフトワークの打ち合わせの過程で「気流の鳴る音―交響するコミューン」に「葉ではなく葉の影に注意を集中させる」という言葉が出てくることを教えてもらった

これを最初に聞いた時に連想したのは「『言葉』も『葉』だな」ということ

しばらくして天才による凡才のための短歌教室を読んで、書かれていた「定型を守ろうとした素人は助詞を削ってぶつ切りにする」という話があまりにも図星だったので、助詞を削らないで定型に収めることを色々試した。

  • それで思ったこと
    • 短歌のバージョン1を作って、字余りなので定型に収めるために削らないといけない場合
    • そこに書かれた言葉だけに注意を向けると、名詞や動詞などの大きな意味を持っている単語に比べて助詞は小さな意味しか持っていないように感じるので、助詞を削ってしまう
    • これは葉をつないでいる枝を捨てることなので、葉はバラバラになってしまう
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  • 助詞を削らずに定型に収めようとしている時の自分の思考
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    • 目の焦点が言葉(葉)から離れて、それによって何が言いたかったのか(影)に焦点が移る、その後、それを表現しようとして新しい言葉が生まれてくる
    • これを一つの葉っぱだけに対してやると「単語を類義語に置き換える」になる
    • 一つの葉っぱだけではなく、もっと広い範囲の影を見たときに「いい感じ」になる感覚がある
      • 理想は一首まるごと影を見ることなのだろう
      • 一首まるごとの影がある、その場所に影を落とす枝は無数にある、その中から定型のリズムに合うものを選び出す
      • 僕はまだ駆け出しなので一首まるごとを見ることは稀にしかできなくて、7音とかの影を見てる感じ
    • ここで行われてることはCreative regressだと考えることもできる

「気流の鳴る音」では「焦点をあわせないで見る」ということについてこう解説している:

  • 焦点をあわせる見方は、全体から抽象された個物に集中する
    • これはつまり「図」と「地」を分けて、「図」に集中すること
    • 無意識に「地」の部分を無視している
    • 焦点をあわせる見方では「あらかじめ手持ちの枠組みにあるもの」だけが見える
    • 焦点をあわせない見方は「予期せぬものへの自由な構え」だ