知識の積み上げモデルは常に正しいわけではない
- ピラミッドのたとえ
- 「空中に箱を置くことはできない」「土台から順に積む必要がある」と書いた
- この「必要」がないタイプの人がいる
とはいえ今考えている「成立しないケース」の人は「灘中→灘高→京大」という変人濃度の高い経路をたどった僕が40歳を過ぎてから1人認識して、それからしばらく経って過去にもう1人居たなーと思っている感じなので、人口比で1万人に1人居ないと思う。
- 境界をどこに置くか次第ではもう数人増える
彼らXは空中に箱を置くことができる
- 正確に言えば「地面」とは何かを問う必要がある
- 地面は多数派の人間が持っている「ここまで掘り下げればOKである」というshared beliefに過ぎない
- Xはこれに参加していない
参加していない人はそこまでレアではない
- 前提を疑って掘り下げまくる哲学者や数学者
- 地に足のついていない フワフワしたことばかり言う人
- これを「空中に箱を置こうとして落ちてしまう人」と認識している
- Xはどちらとも違う
- 空中に箱を置いて、なおかつ、落ちないでものを組み立てることができる
なぜそれが可能なのか?
- これを重力と箱のメタファーで考えていると不可能に思えてしまうので別のモデルが必要
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多分「網」
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- 2012年に書いた「知識と資本論とテクノロジストの条件」では箱を積み上げるメタファーではなく網のメタファーを使っていた
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「箱の積み上げ」は「重力」があって「下の箱が支えになる」というメタファー
- 実際は重力はなく「つながっているものが多いほど安定する」ということ
- - [[一つの刺激に触発されたアイデア]]
- 他のものとつながっていないもの、一つのものとつながっているもの、複数のものとつながっているもの、後者ほど信頼性が高い
互いにつながりあった知識の塊を構築することができるなら、従来から「基礎」とみなされていることをやるのと、そうでないことをやるのとはあまり変わらない
- 身近な大人や教師や同級生が「左図のようにすべきだ」と考えている時に「右図のやり方」をやることは多くの人にとって心理的コストが高い
- 既存の価値観に対する「共感しない能力」と強い好奇心などの「自分の価値観」が必要
- 合理的に考えると左はコモディティ知識なので、右をやることは筋が通る
- が、そのリスクテイクができるかどうか
インターネットによる情報共有コストが下がったことが影響しているのかも
- インターネット以前の紙の本による情報共有では、専門的な内容になるほど情報が少なくなった
- なぜなら専門的な内容は出版社のビジネス的な旨みが少ないからだ
- この時代には数少ない足場をたどっていくことが必要だった
- それは通常は下から上に順番にたどっていくものになった
- インターネットによって情報共有のコストが下がったことで無数の情報が共有されるようになった
- 無数の足場ができたので、好奇心のおもむくままに探索していくことが可能になった
- そういう「既存の学びかたのレール」に乗っからない学びかたでも十分に「密につながった知識ネットワーク」を作ることができるようになった
- BさんはAさんの知識の基礎部分にあるXを確かに知らない
- しかしAさんが持っていない知識を持っているので知識のトレードが成立する
- Aの視点からするとXはコモディティ知識なので「こんなものでいいならあげるけど、君の持ってる物の方が圧倒的に価値があると思うよ?」となる
- まあそうなる人と、ならずに「こんなことも知らんのか」と言い出す人はいそう
- - [[知識のない人]]
この「知識交換の人的ネットワーク」の一員として価値を発揮することによって、事後的に別の種類のshared beliefを獲得している
- ようするに「この数十年の間に行われた教育によって作られた世界観」と「インターネット以降の間に実践によって作られた世界観」のコンフリクトな訳か
- そう考えると後者の方が良い物な気がするな
- 世界観のスイッチが可能であることは、フットワークの軽さとかリスクテイクの能力とかにも関連してそうだ
- 「移動」に帰着する
緩やかな関連
- 知識の消費者に良い知識は与えられない
- 逆に言えば生産側に回ることで質の良い知識を獲得している
- ものを作った人同士は作ったものが違っても通じ合う
- 当初、これが土台の知識になってるのではないかと考えたが、考えているうちに「そもそも土台が必要だと言う考えがおかしい」「土台だと思ってるものはshared beliefに過ぎない」と思いを変えた