UTILITARIANISM BY JOHN STUART MILL CHAPTER II. WHAT UTILITARIANISM IS.
- The Project Gutenberg eBook of Utilitarianism, by John Stuart Mill.
- ちまたで「満足な豚より不満足なソクラテス」って略される「満足な豚より不満足な人間がいい、満足な愚者より不満足なソクラテスがいい」が書かれている章
功利主義とは
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道徳の基礎として「効用」または「最大幸福原則」を受け入れる信条では、行動は幸福happinessを促進する傾向があるほど正しく、幸福の逆をもたらす傾向があるほど間違っているとしています。
- By happiness is intended pleasure, and the absence of pain; by unhappiness, pain, and the privation of pleasure.
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pleasureの定義は明確ではないが、それは
- 道徳論が基礎としている人生論the theory of lifeに影響を与えるものではない
- とミルは考えている、事実かどうかは微妙
- 道徳論が基礎としている人生論the theory of lifeに影響を与えるものではない
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「人生の目的は快楽」
- 「豚にしか価値のない教義」と言う反論がある
- ここで「豚」がでてくる
- このように攻撃されると、エピキュリアンは常に、人間の本性を貶めるように表現しているのは自分たちではなく、告発者であると答えてきた。というのも、この告発は、人間は豚ができる快楽以外は何もできないと仮定しているからである。
- つまり「人生の目的は快楽」というエピクロス派の考え方に対して「豚かよ」と批判するのは、「人間は豚と同様の快楽しか得られない」と仮定してるよね、人間を貶めてるのはそっちでは?という反論
- もし快楽の源が人間と豚とで全く同じであれば、一方に十分な生活規則が他方にも十分なものとなるからである。
- 人間は豚より高い能力を持っていて、ほ一度それを意識すると、それを満足させないものを幸福とは考えないのです。
- 知性の喜び、感情や想像力の喜び、道徳的感情の喜びに、単なる感覚の喜びよりもはるかに高い価値
- ある種の快楽は他の快楽よりもより望ましく、より価値があるという事実を認めることは、効用の原則と完全に一致しています。他のすべてのものを評価する際には、量だけでなく質も考慮されるのに、快楽の評価は量だけに依存していると考えられるのは不合理です。
- ここで「快楽の質」が出てくる
- 「豚にしか価値のない教義」と言う反論がある
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快楽の質の違いとは何
- 量が多いことを除いて、ある快楽を単に快楽として他のものよりも価値あるものにするものは何か
- 可能な答えは一つしかない。2つの楽しみのうち、両方を経験したすべての人が優先するものがあれば、それがより望ましい楽しみである。
- ここで比較の大前提「両方を経験した人」が出てくる
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ここから目的の段落が始まる
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両方を同じように知る人は自分の高い能力を活用できるあり方を好む
- 例えば、知性がある人は愚か者になることを好まない
- これはミルが自分の価値観に染まりすぎて根拠に乏しい主張をしている
- アルコールやマリファナでボンヤリしたがる人は、素面の高い認知能力で自分の置かれた苦しい状況を直視するより、薬物で認知能力を低下させる方を好んでいるわけだし
- 認知能力を高めることがすなわち幸福だと言えるか?
- 関連:アルジャーノンに花束を
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- これはミルが自分の価値観に染まりすぎて根拠に乏しい主張をしている
- 優れた能力を持つ人は、劣ったタイプの人に比べて、自分を幸せにするために多くのものを必要とし、おそらくより深刻な苦しみを受ける可能性があり、より多くの点で苦しみにさらされることになるでしょう。
- 例えば、知性がある人は愚か者になることを好まない
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優れた存在は劣った存在よりも幸福ではないと考える人は、幸福と満足という2つの非常に異なる考えを混同しています。
- 楽しむ能力が低い存在ほど、それを完全に満たす可能性が高い
- なるほど「満足」は「完全に満たされること」という意味で使っているのだな
- 高い能力を持った存在は、世界が不完全であるがゆえに、自分が得られる幸福を不完全だと感じる
- つまりこういうこと
- 不完全さに耐えることを学ぶことができる
- これは根拠のない主張
- 不完全さを感じない存在を羨ましいとは思わない
- 「不完全さを感じない存在」は「不完全な良さ」を全く感じないにすぎないからだ
- つまりこういうこと
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ここで例の文章
- 不満足であっても人間である方が、満足な豚であるよりよい
- 不満足なソクラテスである方が、満足した愚か者であるよりよい
- 豚や愚か者がこれに同意しないとしても、それは彼らが彼らの側しか知らないからであり、反対側(人間やソクラテス)は両方の側を知っている
- とミルは考えているが本当に「人間は人間と豚の両方の側を知っている」か?
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2つの楽しみのうち、両方を経験したすべての人が優先するものがあれば、それがより望ましい楽しみである。
- この比較の原則においては両方を「経験」することが可能であることが暗黙に仮定されている
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両方を同じように知る人は自分の高い能力を活用できるあり方を好む
- 直後のこれでは「知性がある人」と「ない人」のように両方を経験できないものになっている
- 全体が空集合なので何を主張しても真であり反証不可能
- これ「側」って表現が混乱してるのでは
- 「両方の側を知っている」は「AとBを知っている」になるが、ここで必要だったのは「XとYを知っている」では
- AはBになれないのでもしかするとこうなってるかもしれない
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- とミルは考えているが本当に「人間は人間と豚の両方の側を知っている」か?
ミルの主張には穴があって僕は「不満足」なのだが「満足な豚より不満足なソクラテス!いい言葉だなー」と満足してる愚か者になりたいかと言われると、まあ主観的にはなりたくない。 世界の不完全さに不満を感じない人は世界を改善できない