昼食時に物理オフィスへ出社するかどうかに関する話をした後のツイート

nishio: 物理オフィスに集合しないことによって「現在の業務の枠」に収まらない新しい芽の発生確率が下がるという主張は、納得感があるし確かに解決すべき問題だと思うのだけど、一方で「だから物理オフィスに集合する形に戻しましょう」というやり方はトヨタ的でない感じがするなぁ

nishio: ここでいう「トヨタ的」とは「改善を繰り返すことが良いこと」「何かを変えて問題が起きたときに、安易に『元に戻す』という選択をしてはならない」「変えて悪化したなら、それをさらに改善する方法を考えるべき、元に戻すのは思考停止」というような考え方のことを言っている

nishio: 完全リモートワークに移行したことで、今まで陥っていたローカルミニマムから抜け出してより理想に近い状態になったわけで、それが「まだ理想でない、特定の軸で見れば前のほうがよかった」であるとしても、それを理由に前の状態に戻そうとするのはやはり良くないことであるように感じる

nishio: 一方でこのような思考の芽がなんによって生まれたかというと昼食時の雑談であったわけなので、確かにこの種の活動は新しい芽を生む効果がある

nishio: これはもっと解像度高く観察すべきだ。「昼食を食べて雑談する」だけでは必要条件を満たしてない。フルリモートワークの僕が、最近出社を求められてる人と雑談したからこそ芽が生えたのであって、同じ会社の人と話しても同じことは起きなかった。つまり重要な要因に「普段と違う人」がある

nishio: そう考えると「フルリモートワークの人が割といる」という状態を所与のものとして、その上で「他部署との交流を発生させるためにはどうすれば良いか」を考える必要があるのか

kyasbal_1994: これまた不思議なことに、新しい人とランダムにコミュニケーションさせるという試みを見たが、単に挨拶してお互いの事聞いて終わるだけなケースが多く、“普段と違う人”というのは十分でないかもしれない

nishio: 「普段と同じ人」でも「初めましての人」でもない適度な関係性の人をマッチングする必要があるわけか。 確かに初めましての人が「最近は出社してます」って言ったら、僕でも「そうなんですねー」とか返しそうだw


kohide_I: リモートかオフィスか、ハイブリッドの最適比率は?みたいな話題が増えてきてるけど、 そんなことの前に 無駄な会議をやめる、別送でメールでパスワード送らない、チャットでテキストコミュニケーションする、ドキュメント残す、みたいな当たり前のことやる方が先なのでは?と思ってる昨今

hrjn: 昨日出社したけど、半分以上会議室にいたしオフィスにいる意義について哲学したぞ。 hrjn: オフィスにいることのコラボレーションとか会議室にこもってたらないよなーという気持ちにはなった。 多分ほとんどのことはハロー効果、パラ言語的なコミュニケーションで説明できるんだろうなぁとは思う。 hrjn: このハロー効果だとかパラ言語コミュニケーションは、人間が生まれてからx十年過ごしてきて最適化された何かなのでこれがないことの気持ち悪さとか不都合は確実にあるはずなのよね。 これはなんらかカバーされて然るべきだとは思う。 hrjn: この辺を系統的に検討できる人が強いんだろうなーとは思うけどよくわからん(匙投げ hrjn: 一方で、エンジニア職とかはなんやかんや相談しながら作る仕事なので、オフィスにいる意義がある可能性がある。これは大方の直感に反することではあるのだけど。 この傍証はマイクロソフトの論文にも出てて、コロナWFH強制移行で特にエンジニア職においてadhoc なテレカンが増えてることがわかってる。

nishio: たしかにずっと会議室にいるとずっとビデオ会議してるのと同じだなぁ > オフィスにいることのコラボレーションとか会議室にこもってたらないよなーという気持ちにはなった。

nishio: オフィスで「祭り」を行えば、その場にいる人はオフラインコミュニケーションのために来ているという前提で「知らない人に話しかける」行動がしやすくなる、という話と関係してる 617a718faff09e00007dae33

  • nishio: オフィスに来ても、他の人が忙しそうに作業してたり、ずっと会議室で会議してたら、そこにランダムな会話は発生しないよなぁ

nishio: ビデオ会議ではなく祭りを行う必要がある、ってのは昨日の講演コンピュータグラフィクス、メディアアート、茶文化、そして、禅。の「convivialityを取り戻す上で祝祭性が大事」ってのと関連する この「祝祭」はもっと広い概念で、パーティをたくさんやりましょうって意味ではない

nishio: 「祝祭」がconvivialityを取り戻すことに寄与するためには、どのような「祝祭性」を満たすことが必要か。 以前後藤先生に教えてもらった「コミュニケーションがとても制限されたSNSで突発的に祭りが発生した」事例、こういうのはとても良いケースだと思う 自然発生する祭り

nishio: あ、そうか、「Xは『コンヴィヴィアリティのための道具』にならなければいけない」 このXに、SNSや「メタバース」やグループウェアやバーチャル空間上のオフィスが代入されるわけだ

nishio: 「飲みニュケーション」という言葉があるが、要するにかつては共に酒を飲む飲み会は代表的な祝祭であったわけだ。一方で今時のセンスだと「よし、社員のコミュニケーションのために飲み会をするぞ!」ってのは代表的なダメなオジサンの発想なわけだ。ここに何の変化があるのか

nishio: つまり「祝祭性」とは、参加者個々人から切り離してイベント自体に属する性質ではなく、参加者それぞれの主観の集まりとして現れるものだ。構図としては心理的安全性に近い、心理的安全性は「みんな怖くない」祝祭性の要件は「みんな楽しい」

nishio: 参加者が自発的な意思によって参加してることが大事?強制参加の飲み会が楽しくない的な意味で。 参加者がそのイベントをレアイベントと認識していることが大事?祭りは非日常であって毎日やったら祭りではない? どちらも必要条件ではなさそう。

nishio: 参加者が参加に価値を感じてることが必要条件な気がする。先程の2要素はこの「価値を感じる」にプラスに寄与する。 で、この「価値を感じる」は主観なので、「こういう祭りイベントを開催してやるから楽しめ」と天下り的に降ってきたのでは必ずしもワークしない

nishio: プラスに寄与するもう一つの要素に「自分が手を加えられる」がありそう。他人によって作られたものをお仕着せされるのでは、個人の価値観にマッチしないことがある。自分で手を加えられるなら、自分が好む形へと修正していくことができる。

nishio: 一方でこの行動自体が、イベントに価値を感じてないと発生しないな。 「自分の価値観に合うように修正する」という点、結局昔は娯楽が少なかったので「酒を飲む」を大多数が「楽しい」と思っていた(か同調圧力が強かったので楽しくない側がもっと我慢してた)

nishio: 展示会でメタバースのソリューションを提供している会社の人と話してたんだけど、僕は「参加者が場を修正できること」が必要不可欠だと感じている。なぜなら自分でいじることができず誰かの作ったものを与えられるのでは「自分たちの場」にならないからだ

nishio: 同様の原理でカスタマイズできるイベントであることが「自分たちのイベント」であるために必要か? この要件は強すぎる気がする。 物理オフィスが自由に修正できるとしても、公共の場を修正する人は少ない。自分の自由にできるスペースが与えられてそこを修正して満足する人がほとんど

nishio: イベントはその性質上「自分だけのものではなく他の人に影響する部分」が大きいので、修正に対する心理的ハードルが高いな。ああ、たとえば今回のケースで言えば「会場でどう動くかは自由」とすることによってイベント中に自分の価値観によってカスタマイズできる部分が生まれている。

  • nishio: 「今回のケース」=「未踏ジュニアクリエータでSIGGRAPH ASIAに行く」

  • 何を見て、次に何に移動して、ということを運営が決めて天下りせず、個々の参加者の自己決定に委ねている。これによって参加者はイベントを自分の価値観によってカスタマイズし、天下りイベントよりも自分ごととして体験できる

nishio: 話を戻してグループウェア(や将来のグループウェアとしてのメタバース)がコンヴィヴィアリティのための道具であるためには、何が必要か?

  • nishio: まず大前提としてメタバースは当然グループウェアだ、「ひとりぼっちの世界」でない限り、複数人(=グループ)で使うことを前提としたソフトウェアだ。

nishio: いまパラレル卓球の体験待ちの列に並んでるんだけど、物理空間はリソースが限られていることによってデマンドが発生した時に即座に充足できない「待ち時間」が発生して、それは目的のためには「無駄」な時間なのだけど、人間は無駄に時間を使うのが嫌いなのでこの状態の人をマッチングすると(続く

  • nishio: その人の間で「雑談」という「相互にコンテンツを提供するイベント」が「自発的に」「みずからの価値観に合わせて」「偶発的に」「作り出される」わけだ。雑談のためのマッチングをそれ自体を目的として行った時にイマイチなのは「無駄な時間」「待ち時間」「退屈」の状態ではないから

    • 雑談に対して「退屈を解消する」という価値を見出すことは、大前提として退屈状態である必要がある、その必要条件を満たさないまま「雑談は良いことだからやりましょう」とマッチングしてもイマイチ機能しない
    • 雑談は相互消費

nishio: 喫煙者の間でタバコ部屋がコミュニケーションの場になるのは、タバコを吸ってる間が暇だから。一方で現代においては「他人を使わずに一人で暇を潰す方法」が大量に安価に供給されている。だから「互いに相手のコンテンツになる」という互恵的交換に頼らなくても暇が潰せる。

nishio: つまり「参加者がイベントに価値を感じること」は、かつて娯楽コンテンツの供給が乏しかった時には「互いのコンテンツになる」という行動を発生させたが、供給が過剰になると発生の原動力にならなくなる

nishio: 礼儀2.0と関連した話で「相手の時間を奪わらないことが良いことである」という価値観軸が発生すると「互いに時間を奪い合うこと」が忌避される

nishio: ビデオ会議システムを物理オフィスに近づけようという方向性が筋悪なのは「物理オフィスが物理的リソースの枯渇によって無駄を生んでいた状態」から「無駄を生まない状態」になった後で再び「無駄を導入しよう」としてるから。ビデオ会議になれた人が「このシステム、非効率」と使わなくなる

nishio: 人間は暇を避けたくて、物理の制約によって不可避的に押しつけられた「」を解消したくて相互コンテンツ化が起きる。なので「暇」の発生しないシステムができた後で、できる前に回帰するのは、水が低きに流れる流れに逆らって川を登ろうとするような行為

nishio: 話を戻すと安価に大量に暇つぶしコンテンツが存在する時代において「暇を潰すための雑談」が積極的に好まれる状態は発生し得ないので、雑談を促すシステムではなくかつて雑談が持っていた情報伝達機能をより効率的な別のもので置き換える必要がある

nishio: これは今話してた文脈にもあてまって面白い、一人で街を歩いて「退屈」する代わりに、見えてる映像をVR空間に流すことで「VR空間の、既に作られた過去のモデルの中で退屈、今の姿が見たい」という人とマッチングし、相互にコンテンツ化して退屈を解消する #SIGGRAPHAsia2021 imageimage

  • リアル世界を歩いている側の人はVR空間からの声が聞こえるし、ARグラスによってVR空間の側で設置されたオブジェクトを見ることができる

nishio: 時間拘束する雑談は、Scrapboxやグループウェアの上での非同期的なコミュニケーションに置き換わっていくのかなぁ 同期的雑談は暇状態の人が同時刻に存在しないと成立しないわけだから、物理的制約によって物理的に近い位置で暇な人が発生しないと成立困難、非同期的雑談にならざるを得ない

nishio: 一人で二つの身体を操作したり、二人で一つの身体を操作したり、一人に一つの身体って暗黙の前提が壊れつつある時代なんだなー。 身体を共有している二人は雑談をするんだろうか。

nishio: 「自分の興味のあることについて書いて、それを読んで、さらに考えて書く」という現在進行形で発生している現象、自分でコンテンツを作り出して自分で消費している状態だ、暇することなんかあるのかな

nishio: たぶん僕は自分が「退屈」状態になることをすごく嫌っており、今までの人生の中で色々な退屈を体験してそれに対して防御策をとった結果として今こういう状態になってるのだな 思考実験として今この瞬間にインターネット接続が奪われたらローカルのノートに書くし、スマホの電源が切れたら本を読む

nishio: 若い頃は紙の書籍を何冊も持ち歩いてたが、それはiPadに吸収された。一番大きいiPadを持ってることに対して「重たくないの」と言われることもあるが、紙の書籍と比べれば大体なんでも軽い

nishio: そういう意味ではスマホで特定のページをクリックしてロードに1秒以上掛かると待ってられなくて他のウィンドウに切り替えてしまったりするし、ロード待ちのウィンドウがAR空間上で脇に置かれて、読み込み終わったかどうかアプリを切り替えずに視線を向けるだけでわかるようになってほしいな

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