グループで行うKJ法が普及したことによって現れた、と川喜田二郎が考えている問題

初めからグループKJ法ばかりしか経験していない人には、個人作業を行なう基礎的な実力がなかなか培われない…しかも、グループでやった距験だけは何度もあるため、なんとなくKJ法をマスターした気分になっている。力がついてないことに気づいていないのである。(KJ法 渾沌をして語らしめる p.209)

早い段階で複数人で作業を行うことは行われていた。ただし川喜田二郎は「先に個人で行う経験を積んで、力量が成熟が成熟していることが必要だ」と考えた。

一九六八年頃からは、二人がペアでラベルの組みたて作業を行なう研修が始まっていた。ただしこの作業は、第一ラウンド(問題提起)と第二ラウンド (状況把握)のラベル作業を相次いで同一テーマで、個人単位で行なった体験を持った後、第三ラウンド(本質追求)においてのみ実施したのである。 受講者はこの第三ラウンドに至ったあたりで、初めて存分に融通無碍にペアのチームワークを行なうことに成功できたのであった。それ以前では、ひとりずつの力量が充分に成熟していないと、私には判断されたからである。 作業的にいえば、望ましくない妥協がふたりの間におこると思われたのである。(p.201)

西尾は最初からずっと個人でやっているので、知らないうちに力量がついていたのだな。 確かに世の中的には一人で学び始める人よりも、チームワークの一環で触れる人の方が多いだろう。 その最初の印象で「チームでやるもの」と思い込んでいると個人でやろうとはしないのだろうなぁ。 明示的に「個人でやってみましょう」と言っていく必要がありそう。

ひとりずつの力量が充分に成熟していないと望ましくない妥協がふたりの間におこる