• 「間主観性」(Inter-subjectivity)

  • 2人がお互いに主観共有し合うことによって、共有された第三の主観性「間主観性」が構築される

  • 「客観」は存在し得るのか?

  • ブリタニカ大百科

    • E.フッサールの用語で,相互主観性あるいは共同主観性ともいわれる。純粋意識の内在的領域に還元する自我論的な現象学的還元に対して,他の主観,他人の自我の成立を明らかにするものが間主観的還元であるが,それは自我の所属圏における他者の身体の現出を介して自我が転移・移入されることによって行われる。こうして獲得される共同的な主観性において超越的世界は内在化され,その客観性が基礎づけられると説かれる。その後 M.ハイデガー,M.メルロー=ポンティらの議論を経て,廣松渉はこの語を諸個人が互いを主体として承認しつつ単一の世界を共有しているような事態であると定義した。今日では,自己と他者の分化に先行する基底的な構造をさして用いられる。

http://tanemura.la.coocan.jp/re3_index/2K/ka_intersubjectivity.html

  • フッサールの現象学とともに提示された、主観性についての新しい考え方
    • 客観的世界の構成という文脈で提示された
    • 主観性が根源的にはエゴ・コギト〔われ思う〕として単独に機能するのではなく、たがいに機能を交錯させつつ共同的に機能するものであって、こうした主観性の間主観的な共同性が対象の側へ投影されたときに客観的世界という表象が生じる

  • 主観性がそれぞれ単独で世界に対峙しているのではない
  • 現象学は世界の存在構造を、主観性の世界構成の働きに立ち返って問うものであるが、客観性というものをそういう複数の主観性の共同的な働きの相関者として捉えようとした。その共同の働きが間主観性である。

フッサールはデカルト的方法に倣いながらデカルトとは異なる真理観に到達しました。私の考えが私のたんなる思い込みではなくて真理であるために他者を必要とするという論理構造は共通です。しかし、デカルトにおける他者すなわち神は不過謬であるゆえに、誤りがちな私と対極をなす点で私の他者です。神はつねに真理とともにあるのですから真理の客観性を保証します。これにたいして、フッサールにおける他者すなわち他我は、私が複数のここを同時に占めることができず、かつまた複数の身体が同一の位置を同時に占めることはできないという意味で私の他者ですが、私と同じく誤りうる人間です。したがって、私と他我とが一致したところで、その真理は神が認識するように永久不変であるとは保証されません。さらにまた別の他我の登場によって修正される可能性が残っています。それゆえ、この真理についてはもはや客観的という表現はふさわしくありません。そのかわりに、真理は複数の主観のあいだの一致であり、相互の修正をへての一致であるという意味で間主観性・・250 ないし相互主観性という新たな概念が登場します。客観性から間主観性へのこの変容は、真理の値打ちが軽くなったかにみえますが、しかし、人間を超越したものに訴えることなく、真理の基礎は人びとの合意にあるとする点で、近代の哲学すなわち主観性の哲学が進むべくして進みえた到達点でもあるのです」