nishio: 「華厳」の概念がわかったように思うので、理解を検証するために解説してみる。 まず、この「華厳」は「華厳経」だけのことではなく、インドで生まれた華厳経が中国に入って発展した華厳哲学。

nishio: その違いは華厳経が物質の世界W0とは違う世界W1の中の記述をしたのに対し、華厳哲学はW0からW1に行ってそこで気づきを得てからさらにW0にもどるというプロセスを考えたこと。

nishio: この物質の世界W0に関して、物は「ある」か「ない」かである。「ある」ものはしばらくあり続けてから壊れて「ない」になり、なくなったらずっと「ない」ままである。これが物質の世界で生まれ育った我々が無意識に持っている世界観、素朴な物理学である。 一方で華厳経はそれを疑った。

nishio: インド由来の華厳経と中国古来の荘子の両方に共通して「あるかないかの二分法ではない」という考えがあった。ここから「ある」と「ない」の対立を超えたものについての思考が行われる。

nishio: なおこの「あるとないの対立を超えたものの」は「そういうものを仮定したらどうなるか」ではなく「瞑想してたらそういうものを見たし自分もそれになった」なので西洋的な前提を疑っていくスタイルではなく体験によって基礎付けられた公理を導入するスタイル。

nishio: 今まで、やさしい言葉で「ある」と「ない」と表現してたけど、そうすると「あるとないの対立を超えたものがある」って言った時に二つ目の「ある」のせいで混乱するので「ある」をもう少し解像度高く分割すべきだなー。「物質的存在」と「物質的非存在」の対立を超えた「非物質的存在」がある。

nishio: この「非物質的存在」に関して現代人の我々は「えっ難しそうな言葉で議論してたけどそんなもののことなの?」と拍子抜けするかもしれないが、それは我々が彼らに比べて圧倒的未来人だからであって、彼らの時代にはVRゴーグルはおろかモノクロの映写機すらなかった(1900年ごろ発明のかなり新しいもの)

nishio: 少し戻って物質の世界の物理法則についてもう少し話すと、「物質的存在」は空間を占有しているので同じ場所に複数のものを置くことはできない。一つの物質的存在は一つしかないので、複数人がそれを欲しがったら奪い合いになる。これが物質の世界に生まれ育った人が素朴に持っている世界観。

nishio: VRゴーグルのない時代に「非物質的存在」をどうやって感じたのか、まずは「とてもリアリティの高い映像を脳が作り出したのを見た」のだろう。そう考えるとそれを見るための手段として「姿勢を整え、息を整え、考え事をせず、外界からの刺激を全部無視」をやるのは納得感がある。没入環境を作ってる。

nishio: で、テレビもない時代に「自分の脳が作り出したVR空間にフルダイブすること」を繰り返していた人たちが「この現れたり消えたり同じ位置に存在するもの、物質的存在によく似てるけど別物なのでは」と気づく。で「じゃあこれは何だ?」と考えるわけ。

nishio: 考えた結果、「物質的な存在非存在の対立を超越したサムシング『理』が存在して、それの一部がこういう形で現れているのだ」となる。そして「自分もそれの一部なのでは?」と気づく。 ここが一神教の考え方と大きく違う点で、一神教は世界を創造する超越的人格「神」が人間を作るので神と人間は別物だが

  • nishio: 仏教的な考え方では人格のない超越的存在が枝分かれして自分を含めた万物として現れているので、当然自分も超越的存在の一部と考える。

nishio: で、自分も含めてありとあらゆるものが「理」が分かれて一時的に現れているだけのものに過ぎない、と体験をもとに納得した人たちは、次に何を考えるか。 すべてものが根底では一つにつながっている、この「すべてのもの」に自分も含まれる、と考える。

  • nishio: そうすると、自分が蝶を見て「蝶がいる」と心の中にイメージを持つのと同様に蝶も人間を見て「人間がいる」となる。自分の心の中のVR空間に蝶がいるのと同様に蝶の中のVR空間に自分がいる。

  • 一つの物に注目すると、その物は他の物をその中に持つ。そしてすべての物がその主体になれる。

nishio: ここで「胡蝶の夢」と関連してくる。夢の中でめっちゃリアルなVR没入体験をして、蝶の一人称視点で世界を体験して完全に自分が蝶だと感じてたんだけど、夢から覚めたら人間だった。人間が蝶の夢を見てたのか、それとも蝶がめっちゃリアルで自分が人間だと感じるような夢を見てるのか?というお話

  • nishio: で、これは区別がつかないし、そもそも人間も蝶も「理」が分かれて一時的に現れてるだけの存在なのだから区別する必要はない、となるわけ。

nishio: で、ここまで考えてから物質の世界に戻ってくると、二人の人A,Bが一つのものの所有権をめぐって争ってたりするわけ。それを見て「あー、AもBも根っこは同じ存在なのに、それが分からないから争うのだなぁ、みんなもVRフルダイブするといいのに」と思うわけ。

  • nishio: それから「死ぬのが怖い」とか言う人がいるわけ。それを見て「自分のことを物質的に存在するものだと思ってるからその存在が終わることに特別な意味を見出すのだなぁ、理の一時的な現れに過ぎないのに。あなたも理と一体化する体験をすれば怖くなくなるんじゃない?」と思うわけ。

  • 関連: 事事無礙

nishio: とここまでの話はまだVRがない時代の思想なので「みんな禅定しましょう」ってなってたのだけど、技術の進歩によってVRフルダイブが可能になると誰でも簡単にものを生成消滅複製したり重ねて配置したり他人視点になったりできる、つまり「禅定による体験」が技術によって低コスト化するわけだ。

  • nishio: コストが下がるとその経路を通る人が増えるので、華厳の意味での悟りの境地に達する人が増える。明示的に悟りのための修行にコストを割くことなく到達するので「気づいたら悟ってた」となる。デジタルネイティブが悟りを開いた時、悟ってない老人が物質的存在に固執することは滑稽に映るだろう

nishio:

nishio: 3Dプリンタの話は気をつけないと混乱を招きそうだ。「理の世界」と「事の世界」の境界線と「古い自然」「計算機自然」の境界線は一致しないのだけど、人はすぐ単純な二分法に飛びついちゃうから。 これに関する補足。VR空間が「理の世界」なのではない。古い物理的世界も、計算機上のバーチャル世界も、どちらも人間が感覚によって認知する「事の世界」なんだけど、その世界の自然法則が異なっているので、バーチャル世界を体験すると「理の世界」をイメージしやすくなる、ということ。

  • nishio: 3Dプリンタを使う時「理→事」と「デジタル存在→物理存在」の二つの矢印が同時に発生しているので、読者が混乱しやすいのではないか、ということ