- 1835年生まれ
- 19歳
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諭吉は兄の勧めで19歳で長崎へ遊学して蘭学を学ぶ…黒船来航により砲術の需要が高まり、「オランダ流砲術を学ぶにはオランダ語の原典を読まなければならないが、それを読んでみる気はないか」と兄から誘われたのがきっかけであった。
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- 20歳
- 23歳
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中津藩から江戸出府を命じられる…蘭学塾の講師となるため…この蘭学塾「一小家塾」がのちの学校法人慶應義塾の基礎となったため、この年が慶應義塾創立の年とされている。
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- 24歳 渡米
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幕府は日米修好通商条約の批准交換のため、幕府使節団(万延元年遣米使節)をアメリカに派遣することにした。
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サンフランシスコに到着…3週間ほど過ごし…日本に帰国する。
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- 26歳
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幕府は…幕府使節団(文久遣欧使節)を結成し、欧州各国へ派遣することにした。諭吉も「翻訳方」のメンバーとしてこの幕府使節団に加わり同行することになった。
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- 32歳
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朝廷は王政復古を宣言した。
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- 33歳
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蘭学塾を慶應義塾と名づけ、教育活動に専念する。
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- 45歳
- 47歳
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金玉均やその同志の朴泳孝と親交を深めた諭吉は、朝鮮問題に強い関心を抱くようになった。諭吉の考えるところ、日本の軍備は日本一国のためにあるのではなく、西洋諸国の侵略から東洋諸国を保護するためにあった。そのためには朝鮮における清の影響力を排除することで日本が朝鮮の近代化改革を指導する必要があると考え、日本国内で最も強硬な対清主戦論者となっていった。
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- 60歳 日清戦争
『学問のすすめ』においては、孔子の時代は2000年前の野蛮草昧の時代であり、天下の人心を維持せんがために束縛する権道しかなかったが、後世に孔子を学ぶ者は時代を考慮に入れて取捨すべきであって、2000年前に行われた教をそのまま現在に行おうとする者は事物の相場を理解しない人間と批判する。また西洋の諸大家は次々と新説を唱えて人々を文明に導いているが、これは彼らが古人が確定させた説にも反駁し、世の習慣にも疑義を入れるからこそ可能なことと論じた
多様な要素の共存が文明の原動力 表記揺れ: 福澤諭吉