失敗は成功のもと」ということわざがあるが、現実をよく観察すると「成功は成功のもと」と言いたくなる例が多いのはなぜか?と川喜田二郎が考察した文章

要約

  • 失敗は多くの場合、事前に深く思慮をめぐらしていない
  • なので失敗が起きた時に「どこから想定とズレたのか」がわからない
  • 失敗を直視することが辛いので振り返ることができない
  • 一方、事前に深く考えた場合、全体として成功する確率が高い
  • 最終的に成功したので、局所的な失敗について振り返る心の余裕がある
  • こういう場合に本人としては「失敗は成功のもと」となる。
    • nishio.iconこれは細部が見えない外部者からは「成功した」と見えているので「成功は成功のもと」になる
      • 試行錯誤は見えにくいと関連した話
      • たくさんの小さい失敗が大きな成功をもたらすが、他の人からは小さな失敗は見えにくい

引用(太字強調は西尾による)

大切な物事ほど、失敗すると骨身に応える。士気温喪してしまう。とても失敗を反省する元気もでない。それに反省などすれば、またもや失敗の痛みに似た痛みを重ねる。つまり「思い出すのもいや」になってしまう。その上に負け惜しみの強い人は、そもそも失敗を失敗と自認したくない。こういったさまざまの心理状態が、失敗の反省から今後への貴重な教訓を汲み取ることを妨げている。こういう事情については、よほど鈍感でなければ、ほとんどの人が身に覚えがあろう。

だがそれらに加えて、意外に気づかれてない次のような事情がある。失敗の極めて多くのケースでは、そもそも事をなす前に、その物事について深く思慮をめぐらしていない場合が多いのだ。それも思慮をめぐらす能力を持ちあわせていないのなら、やむを得まい。そうではなくて、不用意や怠慢から、それを怠ることが多い。だからこそ失敗したのである。 このように、予めよく調べよく考えた上で物事をやっていないものだから、失敗しても、どこがどう悪くて事態が狂ってきたのか、反省しようにも掴みどころがないのである。ほんとうの深いところまで反省することができず、ごく表面的な直接原因や偶然の不運ぐらいに失敗の根を認めるのが精々となる。 これに反し、成功した場合には、事前によく調べよく考えたことが多い。そこで、なぜに成功したのかがよく判る。そればかりか、全体としての成功の中に含まれたここかしこの局部的な失敗についても、思いあたることが多い。これはまた、全体として成功したために心が潤達に開かれて、失敗を自認する心のゆとりを持っているからである。まさにこういう場合には、「失敗は成功のもと」が文字通りあてはまるのである。この諺がしばしば、失敗した人の自己弁護や負け惜しみにしかならないのとは大差がある。 ここから、次の真実に気づいておくべきであろう。少々の仕事なら、物々しくKJ法を用いたりして深く判断しなくても、ともかくの成功、すなわち達成に漕ぎつけられることも多い。しかしその小さな達成から、ある人は大した教訓を得ないのに、他の人は実に多くの教訓を掴む。この大きな差は、判断や企画に努力をしたか否かで生ずる。 KJ法 渾沌をして語らしめるp.50

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