昔と比べるとマサカリを投げる頻度が下がっているのだが、それはなぜなのかを考えた。

頻繁にマサカリを投げていた頃は「全ての人が正しい理解をしている状態が理想だ」と考えていた。だから「正しい理解をしていない人」が観測された場合、その人が正しい理解をするための情報をフィードバックするのは「当然やるべきこと」だと考えていた。自分の理解も、そういうフィードバックによって改善されてきたと感じているし、社会から恩恵を得たのだから、自分も恩恵を返すべきである、と考えていた。

それが行われなくなった理由はなんだろうか。正解はわからないが、いま思いついたのは著書の存在だ。 ある一人の人Xが正しく理解していない時に、Xに正しく理解させるための文章を書いて、Xの理解が改善されたとして、それは「1人分の改善」である。一方で著書に書いたことは何万人の読者が読む。著書でなくても、ブログなりScrapboxなりに書いたことは、長期的に読まれる。

書いていて気づいたが「長期的」も一つ重要なファクターだ。「Jythonプログラミング」を書いて、短い期間で陳腐化して、今度こそは陳腐化しにくい書籍にするぞと意気込んで「コーディングを支える技術」を書いた。この「情報の陳腐化」を意識しだした時期と、マサカリの減少した時期は一致する気がする。

個別の人Xに対するマサカリより、それをもっと抽象化して長期的に価値を保つような文章を書くことに時間を使った方がよい。僕の人生の時間は有限であって、それを目の前の一人に使うよりは、長期的に大勢の助けになるようなものを作る方向に使う方がよい。その結果、目の前の一人は救われないのだが、それは人間が限られた時間しか活動できない不完全な存在であることが原因なのだから仕方がない。

この考えの変化を経ても「社会から恩恵を得たのだから、自分も恩恵を返すべきである」は充足されている。個別の人に返すのではなく、より効率的だと思う手段で返しているのだ。一方で「全ての人が正しい理解をしている状態が理想だ」に関しては、「それは理想だが、一足飛びに達成できない」と考えるようになった。なので人間に優先順位がつき、「全ての人」が対等に扱われないようになった。例えば若い人と年老いた人であれば、若い人の方が今後の活動時間が長いので、より優先すべきである。自分にフィードバックを返す人とそうでない人であれば、前者が改善された方が僕自身の改善に寄与する確率が高いので、より優先すべきである。行動力のある人とない人であれば、前者の方が正しい理解で動いた場合のメリットが大きいので、より優先すべきである。事実の指摘を人格否定と解釈する人は、改善の可能性が低いので、彼に時間を割くべきではない。

つまり、昔と比べると、より多くの人に対して「マサカリを投げることが有益ではない」と判断するようになったということだろう。