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オリジナルの手法に忠実であるべきかどうか、という議論
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「忠実であるべき」「忠実である必要はない」と議論するのは誤った二項対立
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スキルの習得に関して、武術や芸事の分野で古くから「守破離」という3段階の解説が行われている
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まず型を守る。これはオリジナルの手法に忠実であれ、ということ。
- この過程で、自分の外にあった手法に関する知識が、自分の中に内面化される
- 実際にその手法を使ってみることによって、自分自身の経験が蓄えられる
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そのあと、型が自然に破れる
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弟子ニ教ルハ守、弟子ハ守ヲ習尽シ能成候ヘバ、オノズト自身ヨリ破ル。離ハこの二つヲ合して離れて、しかも二つを守ルコトナリ
- 「不白筆記」 川上不白(1719-1807) 茶道 江戸千家流の祖
- プログラミングに例える:
- まずは教科書に書いてあるコードをそのまま入力してみる(守)
- そのうちに「ここを変えたらどうなるのだろう?」という疑問が自然に生まれてくる(破)
- それを試して結果を見て学ぶうちに、教科書に書いてあるコードの丸写しではないプログラムが書けるようになる
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「離」は体験したことのある人には「ああ、あれね」なるだろうが、言葉だけで説明するのは難しい
- 「先生はXしろと言ったのでXしなきゃいけない」(守)でも「先生はXしろと言ったが、あえてYをする」(破)でもなく「Yするのが良いと思うからやる」になる境地と言えばいいだろうか。
- 「守」のことも、「破」のこともよくわかっているが、そのどちらかに偏っていない俯瞰した視点
- 弁証法っぽさもある
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「忠実であるべき」と主張する人はまだ「破」に到達できてない人
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「忠実である必要はない」と主張する人は
- 「まず型を守る」を前提にしているなら、まともな主張
- 「まず型を守る」をないがしろにしているなら、「守」すらできてない人
この考え方は世界的にみると珍しいのかどうか?
- 日本は一神教思想の影響が弱いため、正しさが人間の外から与えられるという考えよりも、正しさは時の流れとともに転変していく考えの方が強かった。