「どの語も一つの意味をもつ」「単語は対象を名指している」という考え方は誤りではないか、とウィトゲンシュタイン哲学探究で書いている。 Blue and Brown booksで「哲学的困惑の最大の原因のひとつがここにある。すなわち、名詞があれば、われわれはそれに対応するものを探そうとすることである。」とも書かれている。

これらの言葉のうちには、人間の言語の本性に関する特定の映像が与えられているように思える。すなわち、言語に含まれている一語一語が対象を名ざしているー文章はそのような名ざしの結合であるーというのである。ーこうした言語像のうちに、われわれは、どの語も一つの意味をもつ、という考えの根源を見る。この意味は語に結びつけられている。それは、語が指示する対象なのである。 ウィトゲンシュタイン 哲学探究

意味という、かの哲学的な概念は、言語の働きかたに関する一つの原初的な観念のうちに安住している。しかし、それはわれわれの言語よりももっと原初的な言語の観念だとも言えるのである。

「われわれはものごとに名をつけ、いまやそれらのものごとについて語ることができる。語る際に自分自身をそれらのものごとへ関与させることができる。」ーあたかも名づけるという行為によって、われわれがそれ以後行なうことがすでに与えられてしまっているかのように。あたかも「ものごとについて語る」といわれることが、たった一つしかないかのように。ところが、われわれは、実にさまざまな種類のことを文章によって行なうのである。感嘆詞だけを考えてみよう。それらには、まったく異なった機能がある。 水! あっち! わあ! 助けて! すごい! だめ! これらの語が「対象を名ざしている」と、あなたはまだ言いたいのだろうか。