finto__ 前にも書いたかもしれないけど、おれは中学生の頃ずっと嫌いな先生がいて、でもある時にふと「もう疲れるから嫌いでいるのやめよう」と思って意識を変えたら急にパッとどうでもよくなったんだよね。誰かを「嫌う」って結局、「好き」とはまた別の執着の一形態だから、すごいエネルギー使うんだよ

finto__ 当時はたぶん「気が合わない=嫌い」という認識になっていて、人を「好き/嫌い」かのどっちかに分けないと不安だったんだと思う。好きな(自分と合う)部分もあれば、合わない部分もあるっていうグラデーションな状態が受け入れられなくて、とりあえず「嫌い」の箱に入れることで安心してたんだろうね

finto__ で、そうすると自分の思考の枠組みに囚われて、どんどん「嫌い」の箱に入れた人の悪いとこばかりが目につくようになる。イヤなところばかりを探すようになってフラットな視点で相手を見れなくなる。安心に浸るための循環で、却って無駄なエネルギーを使うようになる。これが恐ろしいし、何より勿体ない

finto__ もちろん、「嫌い」にも色々あって、こんな風に簡単に割り切れるケースだけじゃないのは分かるし、考え方を強要するわけでもないけど、自分の直感とか生理的な反応だとか思ってるものって、意外と簡単に(それもちょっとした意識変容で)スイッチできたりするよ という話