事実とデータとはちがう 私は「データをして語らしめる」ことが大切だと力説した。 「事実をして語らしめよ」とはのべなかった。それは、事実とデータとは、違うからである。 どう違うのか。第9図を御覧頂きたい。事実をわれわれは観察し、記録する。それがデータなのだ。そこでわれわれは、実は事実など知ることができない。知ることができるのは、データと、それを獲得するに至った方法・手段だけなのである。 image … 観察および記録という二重の過程をめぐって、そこに方法手段が介在するからには、誤りは多少ともに免れない。あるいは、誤りの入り得る可能性を排除できないわけだ。したがって、決してデータ=事実ではない。極端にいえば、すべてのデータはうそなのである。われわれは事実を決して知り得ない。だから、「事実を知っている」などという傲慢な心を、まず捨て去るのがよい。この謙虚さこそ、科学的というにふさわしい態度というべきだろう。 すべてのデータはうそである。うそと承知でデータを使う。 しかもそこから、より正しい真実を割りだす。それが判断への道なのである。しかし、うそからどうしてまことが割りだせるのだろう。それは、見方を変えると、どのデータにもまた、多少ともに真実の面影が宿っているからなのである。

この話は面白いので後で整理する

  • この話自体も面白い
  • なぜ僕が「データ以外を追加してはいけないのでは?」という問いに「そうではない」と確信を持って答えられたのかというメタな問いも面白い

「データをして語らしめる」を「KJ法のラベルにデータ以外を追加してはいけない」「自分の考えを書いてはいけない」と解釈する人がいる

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