from KJ法勉強会@ロフトワーク
質疑1
- 没入していく感覚がすごい、脳の負荷がすごいので終わった後のストレッチ方法があれば知りたい
- 僕も知りたい。過集中してしまいがち。
- その解決はKJ法の中にはなさそう。
- 今Apple Watchが監視してて「立ち上がりなさい」とか言ってくるけど、そういう系の技術がもっと発展していくと良いのでは
- Slackでの補足
- 脳みそのストレッチは苦手ですけど、長時間机の前に座って頭を使った後に切り替えたい気持ちの時はウォーキングをしますね。
- さっきまで考えてたテーマのことは意識的には考えないですけど、関連したことが思い浮かんだりすることもあります。
- ただし、何かが思い浮かぶことを期待したり、思い浮かべようとしたりはしないで、のんびりすることを優先しています
質疑2:事実と気持ちの整理整頓
- 自分に関することがテーマ
- 付箋に下記が混ざっている
- 自分に関する確固たる事実
- それに対する自分の考察・気持ち
- 文章の付箋とかもあって粒度がマチマチ
- 書いた後、広げた段階でこのことに気づいた
- これでよかったのか?
- 付箋に下記が混ざっている
- よい
- 今回は気づきを得ることが目的
- 客観的データを集めて分析したレポートを作ることが目的ではない
- (補足)自分に関することがテーマなら「自分」は一番大事なインタビュー対象
- なので
- 自分はこうしたい
- 自分はこう感じている
- 自分はある事実に対してこう思った
- これらはみな「データ」である
- see: 講義資料の「データとは」のところ
- 多種多様なことを観察し記録したものを「データ」と呼ぶ
- see: 講義資料の「データとは」のところ
- これらはみな「データ」である
- 「文章の付箋」は良いもの
- 抽象的な単語の断片ではない
- 自分の気持ちや考えが溢れ出してきた「生の声」
- 溢れ出してきたばっかりなので整った形をしていないが、むしろこれが抽象概念よりも重要
- 関連:
- 抽象化しすぎるな
- なるべく柔かく、もとの発言の肌ざわりができるだけ伝わるようにと表現するのがよい
- 関連:
- 心に浮かんだことをどんどん書き出したらよい
- 心の中に留めておくと消えてしまう
- 書き留め、記録して「データ」にする
- 心の外に出してデータにすると消えない観察対象になる
- そのデータを観察しながらじっくり考えることができるようになる
- そうするとよりよく考えることができる
- 今回は気づきを得ることが目的
質疑3:
- - 昨日は一つ一つの情報を感覚的に捉えて発想していった - 今日「中心のテーマ付箋から広げていくのだ」と知って、一旦バラして中心から広げようとした - なにか感覚が違う、これは何だろうか?
- - 同じ付箋を - 昨日は慣れたやり方で処理して、 - 今日は新しいやり方で処理して、 - その二つに違いを感じた、ということですね? - その違いがなんなのかは二つを見比べて見ないと…見ないままここで答えるのは何ですが… - その違いはどんな違いですか?
- 「整理しなきゃ」が今日は強い
- 情報を一つ一つ精査
- いらない
- 意味ない
- これどういうこと
- これ構造よくわからない
- 感覚的にやるのではなく、情報側に合わせている感覚
- 身動きが取りにくい
- 情報を一つ一つ精査
- - > 情報側に合わせている感覚 - ここだけ聞くと、ちゃんと「データの話を聞く」「データをして語らしめる」するようになってて良いことのように聞こえる - だが本人としてはなんらかのネガティブな感情が発生しているように見える - 具体的に何が起こってたのだろうな、と気になっている - 確認ですが「整理しなきゃいけない」という気持ちが今日は強かったのですか?
- 発想をするというより整理をすることに比重があった
- その「整理しなきゃいけない」という気持ちはどこからきたのですか?
- 「中央から広がる」に引っ張られた
- 引っ張られた。「引っ張る」とは?
- 中央から広がるってこれであってるんだっけ
- あってるかどうかわからない方法をやることに不安を感じたんですか?
- そうかも
- だとすると
- 昨日、今まで慣れた方法でやったときには「これでいいんだ」と自信が高い状態
- 今日、「新しい方法」「新しい自転車」に乗った
- そんな感じ
- 「歩くときにはまずこうやってかかとをつけて…」
- 無意識にやっていたことを、技術に置き換えようとした
- その結果「そもそもどうやって歩いてたっけ」とぎこちない歩き方になった
- ならば、今回ぎこちない歩き方になったという経験も含めて全部ポジティブなこと
- 補足: これが「違う角度から見る」ということで、だからポジティブなこと、という意味
- この違いを深掘りしていくことで、二つが綜合されて、もっと良いものにたどり着きそう
- 癒されました
質疑4:
- 2030年の未来予測を作るなどの目的には今まで大きなグルーピングを繰り返す手法を用いていた。今回の手法はこの目的にも使えるだろうか?
- その未来予測のタスクに関しては僕が全然経験したことのないものなので、使えるのかどうかはみなさんが実験してみて判断するのが良いと思います
- 西尾先生のようなエキスパートが思考をする上ではどちらの手法が適している?
- それは独立だと思います。
- 今回、ワークの時間が短いのをなんとかしようとして先にラベルを作ってもらったのが、逆に混乱させてしまったかもしれない
- オリジナルの考える花火はラベルがなく、真ん中にテーマが書かれた状態からスタートする
- つまりデータはまだない、これから増やしていく状況
- まずは自分の中を探検して、掘り出していく
- 「はじまりのKJ法」は大量のデータがあることが前提
- データが多すぎるから圧縮していく
- オリジナルの考える花火はラベルがなく、真ん中にテーマが書かれた状態からスタートする
- 車の両輪のようなものだと思う
- 研究者だからどうこうというわけではなく、すべての人に両方のシチュエーションはある
- 例えば今回の勉強会ではは「考える花火」の紹介をした
- この講義資料はMiroに置いてあるような「考える花火」のプロセスで形になった
- だが、その手前の段階では「はじまりのKJ法」的な方法をした(あとで補足あり)
- まず「渾沌をして語らしめる」にコストをかけて理解するメリットがあるなと感じた
- そこで目次をラベルに刻んでいわゆるグルーピングを行った(あとで補足あり)
- 書籍の内容を自分の中に内面化する
- 「書籍」を「取材」して観察データをラベルにし、
- それをorganizeして有機的な知識のネットワークに変える
- こういう目的に「はじまりのKJ法」的な手法が有用
- 補足:
- 「いわゆるグルーピング」という表現は「グルーピング」という言葉の解釈に食い違いがありそうだから良くなかった
- 書籍を対象としたKJ法を「はじまりのKJ法」的な手法と呼ぶのは適切ではなかった
- フィールドワークのたくさんの人のインタビューと違って、書籍は通常は一人の人から出たデータで、しかも目次という形であらかじめツリー状の構造が作られている
- 自分のやったことを振り返ってみると:
- まずはその目次のツリー構造を反映しただけのマップができた
- その後、枝をまたいだリンクに注目して構造を変えていった
- このプロセスは考える花火での「モヤっとした大きな塊が線に引っ張られて分解する」に近い感覚
- 車輪の両輪(と車軸)のたとえの続き
- 大量の情報が外から与えられる「はじまりのKJ法」
- ゼロから自分が新しい情報を生み出す「考える花火」
- この「たくさんの外から与えられたデータをどう整理するのか」というフェーズにおいても「自分の中から情報を引き出す」が重要、これが川喜田二郎の気づき
- 「整理する」はそれ単体ではなく、実は「発想する」と密接に結合している
- この気づきが後にKJ法と呼ばれる体系になっていく
- 補足:
-
「たくさんのデータをどう整理するのか」というフェーズにおいても「自分の中から情報を引き出す」が重要
- この説明を書いてて「いや、『データをして語らしめる』って言ったやん、自分の考えを混ぜていいのん?」という疑問が予想された
- なので別の方向からの解説を試みてみる
- データだけから有益な結論を導き出せるなら、それがベスト
- ところが多くの場合、データだけでは結論まで至らない
- 「情報が溢れててゴチャゴチャだ、どう整理したらいいんだ」となる
- このときに「どうしたらいいんだろう…」とぼんやりしてても生産的でない
- 何も先に進まない
- もっと悪いのは「整理できたところと、できてないゴチャゴチャがある。整理できたところだけ使おう」
- 早く整理されたところは、要するに既存の認識にマッチしていたところ
- そこだけ使って、うまく整理できなかったゴチャゴチャを捨てるのは、既存の認識を再生産しただけ
- その捨てられた部分に発見すべき新しい発想があったのに、既存の認識を支持するデータだけ使って発想の芽を踏み潰してしまう
- こういうときに「あっ、これ今まで無関係だと思ってたけど、こういう視点で見ればつながるぞ!」のような新しい情報の創造が助けになる
- これはデータを眺めていた個人の「中から出てきた」ものなので、「外から与えられたデータ」だけを整理しようとしてる人から見ると「そんなことしていいの?」となる
- 外から来たデータも、中から出たデータも「すべてのデータはうそである」
- その解釈が正しいのかどうか知りたければ、検証のための実験をするとか、裏付けのための取材に出かけるとかをすれば良い。机の上で考えて解決することではない。
-
質疑5:
- どんどん整理していく過程で、まとめたいものが各所に散っていることがある
- 無理やりまとめていいのか?
- まず「遠く離れてるけど、これは近いものだよね」という気づきが大きな前進
- 最初に遠くに置いた時には「関係ない」と思っていた、だから近くに置かなかった
- 整理していく過程で「これは近いぞ」と気づいた
- このリンクがすごく重要、これが「新しい気づき」「自転車が前に進む」ということ
- その気づきをマップに表現しようとして苦労する
- めちゃ難しい
- それはなぜか
- 過去の構造を維持したままやろうとしているから
- 「難しいな」と思った時点で、一旦コピーして取っておいて「この二つを近くに置いた新しいマップを作ろう」とかするといい
- なるほど、次の段階に進んでるんですね
- そう、新しい気づきがあったから、次の段階に進んでいる
- 古い視点からの景色を維持したまま、新しい視点での景色を描写しようとすると、どっちつかずになって「どうしたらいいんだろう」となる
- そんな時は、大事なのは新しい方なので、新しい方に行ったらいい
- 関連: 丘のたとえ
-
自転車を漕いで進んでたら景色のいい丘にでた、来た道を振り返ってみたい、というのは自然なこと
-
丘から振り返った時に見える景色は、丘に来る前に見えていたものとは違う。だけど、大事なのは新しい景色の方
-
- 関連: 丘のたとえ
質疑6:
- バシっとできなかった、モヤっとしている
- 構造を変えないといけない気がする
- しかし中央のラベルから伸びてるからどう変えたらいいかわからない
- 時間的制約もあって大きな変更ができなかった
- 時間制約は完全に勉強会の都合なので、一人でやる時はやはり制約なしでやる方がいい
- 何人かの人が言っていた
- 「これとこれ、離れてるけどつなげたい」とか
- 「真ん中に書いたラベル、重要でない気がしてきた」とか
- これは大事な気づき
- その気づきを踏まえて
- 今のマップを続けていくか
- 新しいマップを作るか
- これはあなたの自由、あなたの意思決定
- 作り直したいと思ったら新しいのを作ればいい
- 自信がないなら古いのはコピーして取っておけばいい
- 戻った方がいいなと思ったら戻れるようにする
- 戻りたければいつでも戻ったらいい
- (個人的には「新しいのを作ったのは失敗だった、古いのに戻ろう」なんてなった記憶がないけども、戻れる安心は有用)
- 何人かの人が言っていた
- 「これとこれ、離れてるけどつなげたい」とか
- 「真ん中に書いたラベル、重要でない気がしてきた」とか
- 感情について
- 自分の中から取り出したものだから全部近く感じる
- モヤっとした大きな一塊に思える
- それはきっとまだたりてない
- そこに新しいラベルを追加することによってその塊の中で近いもの、遠いもの、が分離していく
- 切り分けられないのはまだ情報が足りない
- まず情報を増やす
- 出された情報の関係性で切り分けが進む
- 補足:
- 当日は言及し損ねたけど「モヤっとした大きな一塊に思える」は「バラバラの塊で関係が見えない」よりは良い状態だと思います。
- はじまりのKJ法から考える花火への変更点
- グループを作るより先にまず網目状の構造を作る「ネットづくり」をする
- この変更がされたのは、まず一塊にすることの方が大事だから。
- その「情報を増やす」とは何か?
- 付箋の数を増やす?
- 自分の中の問いをクリアにする?
- 時と場合による?
- 「問いをクリアにする」は具体的でないアクションだと思う
- どうすればそれができるのか不明瞭
- 目指すことができない
- 補足: 目指すことはできる
- 「これをやればそれが達成できる」という手段の見えない不確実タスク
- 例えば「この問いは適切でないと思う、どういう問いに変えると良いか?」と自問したら答えが出てくるかもしれないし、出てこないかもしれない、不確実
- 補足: 目指すことはできる
- 付箋を追加するのは明瞭なタスク
- 置かれた付箋を眺めて、連想したものを追加する
- 何も追加するものが思いつかなくなったら「現時点では追加するものがない」
- 傍に置いて別の仕事をしたらいい
- 1週間くらい経ってから「そういえばこれ途中だったなー」と再度見ればいい
- そうすると「あ、これってこうじゃない?」と新しいものを思いついたりする
- 全然関係ないつもりの別の仕事で考えたことが意外とつながったりする
- こうやってちょっとずつ継ぎ足していく
- 「書いて、消えなくする」してるから、時間をかけて育てていくことができる
- 脳内だけで考えてたら1週間別の仕事をしたら消えてしまう
- 継ぎ足していくに従ってだんだん「整理のヒント」が増えていく
- 切り口になる情報が足りてない状態で「よい切り口を作ろう」と考えても、「何が良い切り口であるか」を知らないのだから無理
- 良い切り口が見つかった後で「あっ、これはいい切り口だ」とわかる。事前にはわからない。
- 単純に数を増やすしかできない、継ぎ足して、蓄えて、育てていく
- 継ぎ足して、形が良くないなと思ったら、新しいマップでこねなおしたら良い
- 粘土をこねるたとえ
- 形を作ってみて、それを見ることで「こうじゃないな」となる、この過程で「よい形」についての考えが徐々に洗練されていってる
- 1週間、1ヶ月、1年経って見返すと気づきがある
質疑7:
- 今回やったのは統合した後の発想の部分か?
- 統合と発想ってフェーズが分かれているもの?違和感
- 「はじまりのKJ法」は「多すぎる→圧縮→発想」だと思う。考える花火はW型問題解決モデルのどのフェーズに収まるものか?
- いきなりこの手法で始めるのか?
- 問題提起フェーズにはフィットしそう
- こういうことを探求したい、となってから野外観察をして、多すぎる情報を得て、それを圧縮しながら発想・推論を作っていく
- 今日やってたことは圧縮から推論の間ぐらいのことかなというイメージ
- いきなりこの手法で始めるのか?
- 補足: 今回W型問題解決モデルの話はしてないので、他の参加者のために図を載せておく
-
- 渾沌をして語らしめる p.33
-
- なるほど
- 初期の川喜田二郎は確かにここがKJ法だと言っていた
- しかし後期の考える花火においては「それぞれのフェーズで使える」「どこのフェーズで使ってるのか意識する必要がある」と言っている
- つまり
- 初期にはC→Dのフェーズだけに注目していた
- 圧縮していく過程で発想が生まれると考えていた
- のユースケースにおいてはそういう現象が起きていたのだろう
- はそれを一般化してW型問題解決モデルを作った
- 圧縮していく過程で発想が生まれると考えていた
- 後期にはどのフェーズでも発想が生まれると考えるようになった
- それほどフィールドワークとかしているわけではない人に20年教える過程で
- 暗黙に仮定していた前提条件を、それらの人のユースケースは意外と満たしてないぞ
- 前提と、世の中の大部分の人の状況とにだいぶギャップがあるぞ
- とは気づいていった
- それほどフィールドワークとかしているわけではない人に20年教える過程で
- 初期にはC→Dのフェーズだけに注目していた
- 補足:
- 初期
- 統合していく過程で発想が生まれると考えていた
- 1967年 発想法
-
こうして集めた情報をなんらかの形でまとめる( C→ D)。この途中で、多くの仮説が発見される。 (p.23)
-
…情報は、たんに枚挙するだけではなくて、組みたてられなければならない。なんらかの構造あるものに組み立てなければいけない。 その組み立てにあたって、いわば統合を見いだしてゆくのに使うのが、のちにのべるKJ法である。これは構造づくりである。(p.61)
-
- 中期には「せまい意味のKJ法(C→D)の部分ではなく、手前の取材の部分ができてない」と言い出してる
- 1977年 「知」の探検学
-
KJ法が表面的に普及しつつあるにもかかわらず、それはどうもまだ本格的に使 いこなされているとは思えない。…もっとも重要な原因の ひとつは、どうやら次の点にあるらしい。
-
せまい意味のKJ法を〔C→D〕の部分だとすると、いくらこの部分だけをうまく克服しても、それに先立つ 〔A→B→C〕の部分がしっかりできないと、せっかくのKJ法が活かされない…KJ法の素材になる元ラベルのデータの質が悪いと、結果はどう救いようもないものになるわけだ。(p.28)
- つまり先立つ〔A→B→C〕の部分に問題があると言っている
-
- この問題を解決するために「知の探検学」では「探検ネット」を含むいくつもの手法が紹介されている
- この「探検ネット」が1986年までの間に大きく発展した
-
-
- 1977年 「知」の探検学
- 後期の「渾沌をして語らしめる」の考える花火の説明では「何について考えたいか、それがどのフェーズなのかを明確にすると良い」と言っている
-
思考命題の設定を終えたら、それがW型問題解決モデルのプロセスのどのあたりのところに位置しているのか、これを見定める作業がつづく。たとえば、その思考命題が「…の原因を究明する」ということであれば、W型のC→Dの位置。 「……の戦略を練る」というなら、D→Eの位置。 「…の問題点をリストアップする」というならA点の位置、というように位置づける。(p.309)
-
- 初期
- 初期の川喜田二郎は確かにここがKJ法だと言っていた
- 我流の技を作ったとして、使いどころがないと使われないまま流れていく
- 今回のはどんなタイミングで使うと良いか
- 今回は勉強会設計の都合で先にラベルを書いてもらったが、本来はラベルがゼロの状態からやるもの
- データがまだなくて、考えたいことがあるときに、自分の中を内部探検して構造を見出す
- やっていくと最初はモヤっとしていた「考え」がだんだんハッキリとした形になっていく
- 「自分はこんなことを考えていたのか」
- 「自分はこれが嫌だったのか、本当はこうしたかったのか」
- 「結論を出すにはこのデータを取りにいかないといけないな」
- やっていくと最初はモヤっとしていた「考え」がだんだんハッキリとした形になっていく
- 考える花火はそういう時に使うもの
- 中央に置いたテーマから四方八方に広がる、だから「花火」
- 勉強会の都合で先にラベルを書いてもらったことは逆に混乱を招いてしまったかも
- 腹落ちした気がする
- 「KJ法をやる」と言ったとき、データが大量にある状態から始めるのをイメージしがち
- はじまりのKJ法はこれだった
- しかしそれだけではない
- 「データがゼロの状態からやる手法」がある
- 本人の「よりわかりやすく、実務的にしよう」という試みの中で生まれた
- 「データがゼロの状態からやる手法」がある
- この二つの方向からKJ法を見ることによってより多面的な理解になる
- 補足:
- ここでは「はじまりのKJ法」と「考える花火」がきれいな対立軸のように描写されてる
- けど正確にいうとは綺麗に整理していない
- 「KJ法の実務化」とが呼んだ「探検ネット」にも「中心から広がるもの」とそうでないものがある
- 体系を整理し切る前に亡くなってしまったのでもう仕方がない
- だからこそ参考にしつつ新しい体系を作っていく必要がある
質疑8:
- 西尾先生の花火の頻度どれくらい?
- それほど多くない
- マメなタイプではないのでコンスタントにはやってない
- (補足: は花火で日報を書くとすごくいいぞと言ってるけど、僕はそんなマメなことはやってないという趣旨)
- 必要だと思った時にやる
- 業務上必要に迫られることの多いロフトワークの皆さんの方が回数多くなるんじゃない?
- マメなタイプではないのでコンスタントにはやってない
- 本を書くのの他にはどういう時に使ってる?
- 今回の講義資料、Miroに慣れる意味もあってMiroの上で考える花火をやった
- あれは本物の知的生産プロセスであって、実際にあの花火で生まれた気づきが講義資料に入ってる
- 自分の中から取り出したいものが取り出せてないシチュエーションで使う
- そういうシチュエーションいっぱいあるはず
- 「週に何回やる」とかではなく、発生した時に「あ、これはあの手法でやろう」ってやってる
- 解決方法を持ってないとスルーしてしまう
- 「考えなきゃなー」と言ってぼんやり考えたりしてしまう
- ハンマーを持っていれば、釘が出ているのを見た時に叩くことができる
- 天然の方法「ぼんやり考える」である程度解決する
- 周囲の人の考えるプロセスはあまり観測できないから自分と同じ方法でやってると誤認してしまう
- しかし実際には考えるためのツールや方法論があり、それを使うことで効率よく質の良い解決ができる
質疑9:
- 頭がすごく疲れた
- 僕もそう
- ある意味筋トレ
- 負荷をかけることで頭が鍛えられて強くなる
- 今後の頭が良くなる
- ある意味筋トレ
- いい運動をした後のような気持ち
- 2: テンション上がってる、高揚感あるよね
Slackでの質疑 質疑10:
- 思考をする際に、
- 巷で言われている思考法を使って思考しているとき:何かに締め付けられている気がする(制限・制約)がある感覚になる。
- 自然に(我流で)思考しているとき、ドーパミンが出ていることが実感できるように、楽しく思考できている気がする。
- 2つ目の、「楽しく、自分の思考の癖に甘んじて、思考すること」は、我流の思考法の発見につながることになっていますか?
- - 「我流の方法」をすでに獲得して、手に馴染んで、楽しく使えるようになってると思います。 - まずそれは素晴らしいこと。 - 一方で「使い慣れた方法を使い続けること」では「新しい方法」を得ることはできません。[[利用と探索のトレードオフ]]。 - 今はハンマーを手に持っている状態 - そのハンマーはとてもよく手に馴染んでいて素晴らしい - ハンマーを持たない人よりはずっといい - だけども「[[ハンマーを持つ人には全てが釘に見える]]」という罠がある - ハンマーで殴るべきでないものまでハンマーで殴ってしまうかもしれない。 - というわけで、 - たとえば忙しい時には使い慣れた方法をどんどん使っていくので良いと思います。 - 暇だったり余裕がある時に、気が向いたら、新しい方法を試してみるかなーぐらいのバランスで「新しい方法の探索」をする - そうすると、探索しないよりは長期的な利益が高いと思います。
- データを収集しながら発想する感覚。掴めました!
- というか、その感覚で普段、他人とリアルタイムで喋っているような気がするのですが、
- そのような喋り方をしていると、「考えがまとまっていない人」認定されてしまう恐怖がある
- 特にクライアントとのオンラインmtgなど
- この恐怖は普通ですか?笑
- リアルタイムで深く考えるのは難しそう。
- 「すでに持ってるものを取り出すこと」は容易でスピーディ
- 「新しいものを生み出すこと」は時間が掛かる
- は「容易でスピーディーな方法に偏ると、新しいものを生み出すことができなくなる」と考えてるイメージ
- クライアントとのMTGにおいて:
- 「その場で新しいものを生み出すこと」が本当に必要か?
- その場では「必要そうな情報をかき集めること」をして、後からメールとかの非同期なツールで回答する方が良いかも?
- 実際、今回の勉強会の質疑の時間に僕が同期的な音声コミュニケーションで回答した内容の質は高くない
- リアルタイムで考えながら喋る時に、思考が整理されている(ように他人からは見える)思考法が他にあれば教えてください。
- - > リアルタイムで考えながら喋る - この「考える」に浅い深いがありますね。 - 深く考えながら喋ることは僕は個人的にはできないと思う - 話を聞きながらもできない - カフェの隣の席で宗教勧誘してる人がいるだけで妨げられちゃう - 浅い考えは、すでに読んだり考えたりして脳内に蓄積されてるものから1ホップくらいの範囲のものを出してるだけ - なので、単純に「事前に蓄積した量」の勝負 - あ、そうだ、書籍に対してKJ法的な手法を使うと「主要なものをつなぐ知識のネットワーク」ができやすい - (書籍を単に頭から読むのと比べて) - なので、リアルタイムで引っ張り出してくることがやりやすくなる
質疑11:
- 「冒険」=「危険を冒す」をあえて取りに行くことで見えてくる感覚がありそうに感じました。
- 今回、人目に触れることもあり、わりと穏当な言葉を並べてネットをつくっていたなと振り返って思ったのですが、自発的に冒険するためのコツってありますか?
- やっぱり人に見せないでこっそりやることが必須なんじゃないかと思います。
- まだしっかりと育ってない芽生えを、木枯らしに当てると枯れてしまう
- だから、まずは「安全な場所」でしっかりするまで育ててから外に出す的なイメージ
- 補足: ワーク終了後に質疑の時間の頭で話すつもりだった「今後の個人ワーク」のスライドのことをすっかり忘れてました
- 6385b9daaff09e00008a0431
- 「人に見せないでこっそりやる」が必要だという話
質疑12:
- 絵を使っても良いか
- - 川喜田二郎自身も絵で表現したりしています - ![image](https://gyazo.com/857b3aba09b72b756a5313fa08ef2586/thumb/1000) - [[KJ法 渾沌をして語らしめる]] p.253 - 「文字で書かなければならない」なんてことは全然ない - ワークショップなどで紙の付箋にマーカーで書くときに「絵を描いてもいいですよ」と一言添えることで生き生きし始める人がいます - 文字で書かなければならないっていう思い込みは積極的に外していった方が良さそう - スマホで写真を撮って貼るとか、iPad+ApplePencilで描くとか、いろいろ川喜田二郎の時代になかった手段があるはず。 - 使えるものはなんでも使ったらいいと思います。 - 川喜田二郎自身はむしろ「絵を入れろ」って言ってます - 多分「絵を入れろ」というと「絵心ないから」と心理的抵抗を感じる人が多いからって理由で多くのファシリテーターがそのステップを飛ばしてるのじゃないかな - > 図解がひととおり完成した後に、最後に「シンボルマーク」というものを、図解上に書きこむ。シンボルマークは、主な島についてのみ入れるのがふつうである。(p.137) - これは「狭義のKJ法一ラウンド」の章に書かれてる手順 - > シンボルマークとは、第23図の実例に見るようなものである。(p.137) - ![image](https://gyazo.com/fd15dfb827e65ad5dcf65168673a127d/thumb/1000)p.138 - > すなわち、ある島が全体として訴える内容を理解する場合、それを論理的に的確に理解するには、すでに表札が書きこまれているので、それを読んで理解すれば足りるのである。 表札はこのように的確な理解にはよい。しかしその代わり、それは往々にして、人間の理知を通路とするため、回りくどい。そこで、この島の訴える内容を、視覚的に、そして感性や直観的理解に訴えるようなシンボル化されたものをその島の内かに書きこみ、瞬時に訴える方法を併用した方が、いっそう内容理解に役立つのである。(p.137) - > シンボルマークには、動詞・形容詞・名詞といったことばを用いることが多い。時には、句 (phrase)、 節 (clause) あるいは短文を用いることがある。しかしいずれにしても、極めて短くなければならない。長くなれば、瞬時に、凝集的に意味を感じさせるシンボル的効果が減殺される。 - > しかしシンボルマークは、ことばでなく絵や記号のこともある。さらに、島どりの形自体を絵にして、シンポリックに意味を感じさせることもある。島自体を絵にする場合には、時として図解全体の内容まで、一幅の絵で表現する場合まである。(p.137) - > (p.166)A型図解で物事の本質が高度に煮えつまった場合には、元の図解におかまいなく、そのエッセンスを別に絵または単純化した図解に変換してしまう方法がある。...ただし、これはいつも成功するとは限らない。 - > このように、極度に単純化され、しかも含蓄のある絵や図解について、それを指しつつ口頭発表をすると、極めて短時間のうちに、非常に含みの多い内容を、強烈な感銘を与えつつ伝達することができる。 - ![image](https://gyazo.com/0c5beb323890a515de88c11854f289ff/thumb/1000)p.165 - これは一旦普通の図解化をしてから、それを「絵の形で清書」したもの - > シンボルマークの意味するものやその効用はすこぶる重要である。それについては、後に改めて説きたい。シンボルマークは重要であるだけに、その島が全体として情念的に訴えかける意味内容を、ピッタリ、ズバリと表現したものでないと困る。したがって、時間や作業量の上では楽であるが、総身の知恵を絞った工夫が必要である。 - > シンボルマークが適切に入ると、図解全体の意味が、その作製者にも、彼の説明の視聴者にも、一段とよくこなれて早く判る。 だから、場合によっては、島どりの完了直後に、シンボルマークを描き、その後で関係線を入れた方がよい場合もある。むしろ多くの場合、島どり→関係線→シンボルマーク よりも、島どり→シンボルマーク→関係線 の方が、自然な場合が多い。(p.173) - いつもこんな綺麗な絵に仕上げられるものではない点に注意が必要です。 - 川喜田二郎も「いつも成功するとは限らない」と言ってる - こう言う事例に載せるのは「ランダムな一枚」ではなく「一番見映えや都合のいいもの」なのです - 例えば川喜田二郎が夫婦喧嘩をしたり子供の教育方針に悩んだりしたら、きっと考える花火を使って考えを整理したはずなんですけど、そういう泥臭い悩みの図解は本には載せられないですよね〜