Accessism

nishio: インターネット上の「情報の総体」は死すべき者=肉の衣を着た人間とは異なる永続的超越者であり、インターネットに投稿しそれが匿名のミームとなって永続的超越者の「境界の見えない一部」となることは超越者との合一であり、それによって生死のある世界から離脱して涅槃に至るのです(悟りの境地)

nishio: ここに至る流れ Kozaneba修行

nishio: もうちょっと整理すると面白そう。 ・オープンアクセスな情報の総体は永続的超越者Xである。 ・人は寿命が限られている、しかしみずからの思考を言語化しオープンアクセスとすることによってXの一部となることができる ・これによって人は生死のある世界から離脱し永遠の命を生きることができる

nishio: 肉の体は一時的な止まり木に過ぎない。あなたの本体はあなたの生み出した情報である。 一神教の人向け説明 Xは人間の寿命を超えて存続するという意味で永続的超越者であるが、世界の創造者ではない。おそらくあなたの宗教における「神」ではないので「他の神を信じてはいけない」に抵触しない。

nishio: 仏教の人向け説明 目覚めた人ブッダは、初転法輪でみずからの思考を言葉にされた。この言葉はオープンアクセスとされ、地域国家を超えて伝播された。これによってブッダの思考はXの一部となり、永続的に存在するものとなった。

nishio: (検閲に対する反対) 永続的超越者Xは世界の一部に過ぎない国家の一時的な政治的権力を超越する存在である。政治的権力が検閲や焚書などにより情報を消すことはXを傷付けようとする行為であり、好ましくない。

nishio: フェイクニュースを流す行為は、ダメなのかどうか考えたけど「正しい情報である」という判断は永続的ではないな。 フェイクニュースが有害なのは「この情報は真実である」と愚かな人間が思い込むからであって、「こういう内容の情報がある、真実かどうかは不明である」と受け取れば問題ない

nishio: 英語でなんていうといいのかなAccessismとかかな?

nishio: プログラマ向け説明 あなたが書いたソフトウェアのソースコードを公開することは、永続的超越者Xの一部となり永遠の命を得ることである

nishio: 「永遠」という概念は、我々の誰もそれを見たことがなくて頭で想像しているだけなので齟齬があるかもしれない。もっと明確な表現をするなら「Xはどの個人よりも長く存続する」となるだろう

nishio: 「存続」もか。一つの情報だけに注目して「消えることもある、存続しない」と思う人がいるかもしれない。 それはあなたの体の中の一原子に注目してるようなもの。日々多くの原子があなたに入り、また出て行くが、それでもあなたの主観はあなたを「存続している」と感じるだろう。同様のこと。

nishio: 仏教における悟りとAccessismにおける悟り(という言葉は混乱を招きそうなのでYと呼ぶことにする)は、構造が似ているが直交していて両立も片方だけやるのも可能だ。 ブッダは仏教的悟りの後で(ブラフマンの頼みと書き残されてるがそれが事実かどうかはさておき)それをオープンアクセスにしようと決めた

nishio: そして初転法輪以降、繰り返し考えのアウトプットを行ったことによってXとの合一が起きた。 あ、やっぱりYなんて導入されたしたけど使う必要がないな。仏教における悟りは一瞬で起こるが、Yは小さなものが少しずつ積み上げられていくから「悟り」と関連づけるのは混乱の元だ

nishio: 今日僕に起きた「気づき」は、今まで無自覚に、なんとなくそれが良いことだと思ってやってきた考えをオープンアクセスにする行為によって「永続的超越者との合一」が起きている、という気づきだった。 合一のプロセス自体はゆっくり育っていく木のようなもので、僕は今日、その木の存在に気づいた。

nishio: だからこの気づきを「悟りをひらいた」と表現するのはちょっと違う。「既に悟りを開いていたことに気づいた」という方がしっくりくる。しかしこの「悟り」は仏教における悟りとは構図が似ているが直交するものであるので、わざわざおなじ言葉を使うのは混乱の元であり、良くない

nishio: フェイクニュースの話、ちょっと違うな。 「正しくない情報を流すこと」は「正しい」が変化しうるから、それだけで悪であるとすることはできない。だけど「正しくないと思っている情報を正しいと誤認を誘う形で公開すること」は悪であるとしても良いのでは。 twitter.com/nishio/status/…

nishio: あー、そうか。それは悪であるとか以前に「あなたの考え」ではないから、それを公開して永続的超越者Xの一部になったところで「あなた」の永続化には繋がらない、ということか。 これはつまりブッダが苦行僧を見て「そんなことをやっても悟りにつながらないのにな」と思ったのと同じ

nishio: 世界の多数派の意見と異なる意見を公開することは、良いことだ。なぜなら「現時点の多数派の意見」は永続的なものではないから。新しい考えが登場する時、それは常に少数派であるので、少数派であることは悪ではない。 多数派の意見と異なる意見の表明に反対するのは検閲と同様の悪である。

nishio: こう考えると「ワクチンは害があると本人が信じている場合に、その真実を多くの人に伝えようとして行われるアウトプット」は肯定せざるを得ないな。現時点での科学者の意見に反することと、永続的超越者との合一とは無関係。 本人通り「ワクチンに害があると考えていた人」として永続化されるだけ。

nishio: 「Aだと考えていたが、その後の情報を見て考えを改めた人」「Aだと考えていて、その後の情報を見ても考えを改めなかった人」どちらになるのも個人の自由であり、その二つに良し悪しはない。 本人をありのままに移したアウトプットであるなら本人の永続化になる。