エンジニアの知的生産術 p.202 コラム

  • 2023-09-16 「暗黙知」に「コラムに書いたので出版されたらScrapboxに載せる」という趣旨のことを2018年に書いたのに今まで忘れていた。哲学者の氏名表記はカタカナにした(元々その方が読みやすいと考えていたが、出版社の意向で紙面では異なっている)

二種類の暗黙知

暗黙知という言葉の意味についての議論は、抽象的すぎて、あまりみなさんの知的生産性の向上につながらないと思います。しかし気になる人が 多いようですのでコラムの形で説明しておきます。

ポランニーが 1958 年に著書『個人的知識』で、今で言う暗黙知の概念を提案したとき、かれは tacit knowingtacit knowledge の両方の表現を使いました。日本語では knowingknowledge も「知」と訳されるので、この 2つの区別が難しいです。柔らかく訳せば「暗に知ること」と「暗に知っていること」の違いでしょう。

『個人的知識』のサブタイトルは『脱批判哲学をめざして』というものでした。「批判哲学」とは何なのかを掘り下げましょう。デカルトが 1644 年に著書『哲学の原理』で方法的懐疑を提案して以来、西洋哲学では「当たり前だと思っていることを疑っていく」という言語的な思考プロセスが重視されてきました。カントは、この疑うこと(批判)こそが哲学の最も重要なタスクであると考え、批判という言葉を掲げた書籍『純粋理性批判』『実践理性批判』『判断力批判』を 1781~1790 年 に出版します。ポランニーの著書の題に書かれた「批判哲学」とは、これを指すものです。

ポランニーは明示的で言語的な「批判」だけによって新しいものが生み出されるわけではないと考えました。1966 年の『暗黙知の次元』(原題 “The Tacit Dimension”)は、明示的で言語的な次元とは別の、暗黙的で非言語的な次元について語られたものです。この本では「暗黙知は、いつかは発見されるだろうが今のところは隠れている何かを、暗に感知することにある。」(p.48)「解決へと迫りつつあることを感知する自らの感覚」(p.50)という表現をしています。

ポランニーは主に科学的発見のプロセスを想定していました。なので、彼の考えはデカルトやカントの考えと対立するものではなく、仮説を立てて実験することによって知識が得られる科学と、実験ができない哲学の、分野の性質の違いによるものでしょう。(2023追記: 下で補足)

経営学者の野中郁次郎は、1996 年に著書『知識創造企業』で、ポランニーの考えを踏まえて知識を暗黙知と形式知に分け、これに知識が個人に存在するのか組織に存在するのかの次元を加えて、組織内での知識創造について議論しました。ポランニーの関心は科学者個人の知識創造でしたが、野中郁次郎の関心は組織内での知識創造です。

野中郁次郎は知識を作り出すのは組織ではなく個人であり、個人の知識 には 創造が、組織内の社会的相互作用によって促進されると考えました。そして次の 4 つの知識変換モードを提案しました。頭文字をとって SECI モデル と呼ばれます。

  • 個人の暗黙知を組織の暗黙知にする「共同化」(Socialization)
  • 暗黙知を形式知に変換する「表出化」(Externalization)
  • 個別の形式知を体系的な形式知にする「連結化」(Combination)
  • 形式知を暗黙知に変換する「内面化」(Internalization)

この文脈で「暗黙知」という言葉は、表出化によって形式知に変換されるものを指しています。いわば「まだ言語化されていない経験的知識」です。これはポランニーの「問題の解決に近付いているかどうかを感じる感覚」とは違うように思えます。一方、その感覚は経験的に獲得されたものではないか、だからポランニーの暗黙知は野中郁次郎の暗黙知の一部なのではないか、 という主張もあります。

私の個人的な感覚では、この 2 つの用法を同一視したり、包含させようとしたりしないほうが問題の解決に近付くだろうと感じています。

2023-09-16 追記

ポランニーは主に科学的発見のプロセスを想定していました。なので、彼の考えはデカルトやカントの考えと対立するものではなく、仮説を立てて実験することによって知識が得られる科学と、実験ができない哲学の、分野の性質の違いによるものでしょう。 この「科学」と「哲学」の対比だと、読者は「自分がどちらの側に入っているのか」をわからないように思った。 読者が日常の問題解決を行なっているとき、それは「科学」の側に入る。日常の問題解決の例として、例えば郵便箱の開閉がスムーズでないなと思って、叩いたり引っ張ったり開閉を繰り返してみたりしていることを考えてみよう。これは「開閉がスムーズではない」という問題を見て、「引っ張ったら直るかも?」と仮説を立て、引っ張ってみる実験を行い、「直らなかった」という結果を見て仮説を検証している。実験科学仮説検証サイクルだ。 このときに、試してみることはどうやって選んだのか?例えば「神に祈る」や「一晩寝る」を選ばなかったのはなぜなのか?暗黙に「それでは直らなさそうだ」と思っているからだ。逆にいえば「引っ張る」という選択肢に暗黙的に「良さ」を感じているわけだ。一方で「試してみてダメだった」のだから、あなたは「正解」を知っていたわけではない。なのでこの事例は「正解が何かを知らず、探している状況で、明示的でない感覚に従って行動を選択している」という事例なわけだ。

デカルトの方は「我思う、故に我在り」などと言っている。これは自分の目で見たものを正しいと信じなかった場合に何が正しいと言えるのかを考えて行った結果、「考えてる自分が存在している」ということは正しそうだと思ったという話である。これは実験による検証ができないことを仮定して考察を進めているので、その結果ももちろん実験的に検証することができない。大部分の読者は自分の目で見たものや感覚を一切信じられない状態にはならないので、実験科学の仮説検証サイクルを回していくのが良いと思う。