人間には「他人から重大な人物だと思われたい欲」があって、老荘思想では「他人から重大な人物だと思われることを喜ぶのは良くない」と説く(庚桑楚編の前半など) 老子のように「重大人物感」を得た上で手放すのと、得てない状態で不要だと考えるのは、イコールではないのでは。後者はすっぱい葡萄や逆張りの価値観なのではないか