- 西田 幾多郎の晩年の著作
- 川喜田 二郎 の 創造性とは何か p.79から言及アリ
- 松岡正剛による解説
- 昭和2年『働くものから見るものへ』
- 「主語=客観=特殊」は「述語=主観=一般」に包まれていく
- 大筋でゴットロープ・フレーゲの「述語は主語を包摂する」
西田幾多郎の絶対矛盾的自己同一を読んでいたのだけど(正確に言えばKJ法のための付箋を作っていたのだけど)よく言われる「Aは非Aであって、それによってA」ってのは何もおかしくなくて、まさにその通りのことを言ってるのだけど、ただものすごく圧縮表現されてるってだけのことなんだなぁと腑に落ちた。 一方で、内容が正しいことと、その説明で伝わることとは全く別物で「非」の意味とか「である」の意味をきちんと伝えないと伝わらないよなぁと思った。
あえてたとえ話をすると、「自己変革」は、現在の瞬間で自己変革をするとしたら、過去の自己と未来の自己は別物でなければならない。過去と未来の差の極限として、現在の自己はAかつ非Aである(これは非連続な関数の下からの極限と上からの極限が不一致なことをイメージすれば矛盾ではない。「である」の意味が一般的な使われ方ではないだけ)
- 数学の言葉でかく。過去は t < 0 であり、未来は t > 0 であるとしよう。現在 t = 0 は過去でも未来でもない。ここで、ある関数f(t)の t = 0 の時の値はなにかを考える。このfが「過去には-1で、未来には1な関数」だとしよう。この関数の定義域は t = 0 を含まないので「未定義だ」と答えてもよい。だが、数学には極限という操作があるのでこれを使うことにする。この場合、過去 t < 0 から極限を取ると-1だし、未来から極限を取ると 1 だ。同じt=0での極限だけど、一致はしない。これは数学的には別におかしなことではなくて、非連続な関数なんだから当たり前だよね、という話。右側極限と左側極限が一致しない例。片側極限 - Wikipedia
で、もう一歩進めて「Aは自己変革を続ける自己である」というケースを考えると、すべての瞬間で「Aかつ非A」であって、かつそれがAである。Aとは自己変革をする自己である、と定義しているため、「Aかつ非Aである」→「自己変革をしている」→「Aである」が成立する。これを数学なしで表現すると「Aは非Aであり、それによってまさにAである」となる。
西田幾多郎の概念は難解だって言われるけど、数学の極限の考え方を、数学の言葉を一切使わず哲学の言葉でしゃべっているからなだけであって、数学的に考えればそんなに難しくない。数学を使わずに無理して話すから「Aは非A」みたいなことになる。彼の前の著作にある「無の場所が存在する」も+1を繰り返した極限としての無限大が「概念として存在する」けど「数の体系の中には存在しない」ってのと同じことだし。
本文中に何度も「作られたものから作るものへ」と出てくるのだけど、これが世界の自己変革なわけだ。西田幾多郎は、世界は、自己変革を続ける世界だ、ということを考えていて、それを突き詰めていった結果上のような議論になったわけだ。
後、そもそも論として、西田幾多郎は「世界は自己変革するものである」という自分の世界観を述べているのであって、その世界観を成立させるための条件を詳しく考えて行ったら「絶対矛盾的自己同一」だという結論になったという話をしている。「世界は自己変革するものである」というところを論証しようとはしていない。だからその論証が書かれていると思って読むと混乱するのだ。
あと「Xでもnot Xでもなくて、その合体だ」ということを彼は言おうとしているのだけど、大部分の人にとっての素朴な世界観はXなんで混乱するのである。ちなみにこの素朴な世界観Xってのは「現在が過去によって決まる世界」「不変的原子のような個物が相互作用してる世界」だ。
この世界観Xは、物理的にはしっくりくるものだと思うけど「でも人間が意図とか目的とか持って行動するのとうまく合わないよね」って言ってる。
それのアンチテーゼとしてのnot Xの世界観は何かって言うと「現在が未来から決まる」「未来にこうであるという目的から逆算で現在が決まっている」という世界観。これは物理的な世界観の人からするとギョッとするかもしれないけど、例えば世界が全知全能の神によって設計されていて、今現在起きていることはすべて我々には計り知れない神のご意思なのである、という思想をイメージしてもらえば、不可能な世界観ではないことがわかるだろう。
そういう矛盾的なものが同一である、しかも自己と同一である、というわけで「絶対矛盾的自己同一」なのだ。
若干うまくつながらないところがある(因果論の世界から目的論の世界に自己変革するわけではあるまい、とか)が、まあだいぶ進んだし、もう寝るとしよう。
個物は、自分が行動の主体にならない、極限。これを述語という?
個物が「ある」と言うから、意思の有無とは別に主語にはなりうるのか。そして、個物が「ある」と言うとき、それは「どこそこにある」という「場所」の概念を伴う。で、場所があるというとき、それも同様に場所の場所にある。その極限が無の場所。
まず主語が分化する前の純粋経験について考えて、それが行為の主体としての自分と、行為の客体としての自分に分化すると考えたのが先にある。そういう初期の著述と後期の著述では「逆対応」があるので、区別せずに混ぜて読むと混乱する。
実験1 以下で、Scrapbox上での構造化を試みたが、適切ではないと判断し中断した。 「~は~である」「~は~ではない」という記述を付箋化してKJ法すると面白いかもね。
以下P1は「段落1を指す」
- P1
- 現実の世界とは物と物との相働く世界でなければならない。
- 相働くとは何か
- 現実の形は物と物との相互関係と考えられる、相働くことによって出来た結果と考えられる。
- 相働く=相互に関係すること、か?
- しかし物が働くということは、物が自己自身を否定することでなければならない、物というものがなくなって行くことでなければならない。
- なぜか?
- 物と物とが相働くことによって一つの世界を形成するということは、逆に物が一つの世界の部分と考えられることでなければならない。
- そうか?
- 例えば、物が空間において相働くということは、物が空間的ということでなければならない。
- 空間的とは何か?
- おそらく一般用語としての「空間的」ではなく、場の理論の文脈。空間の中にある物と、その物がある空間の対比。
- 空間的とは何か?
- その極、物理的空間という如きものを考えれば、物力は空間的なるものの変化とも考えられる。
- 物力とは?
- しかし物が何処(どこ)までも全体的一の部分として考えられるということは、働く物というものがなくなることであり、世界が静止的となることであり、現実というものがなくなることである。
- そうか?
- 現実の世界は何処までも多の一でなければならない、個物と個物との相互限定の世界でなければならない。故に私は現実の世界は絶対矛盾的自己同一というのである。
- 現実の世界とは物と物との相働く世界でなければならない。
- P2
- かかる世界は作られたものから作るものへと動き行く世界でなければならない。
- それは従来の物理学においてのように、不変的原子の相互作用によって成立する、即ち多の一として考えられる世界ではない。
- 従来の物理学=普遍的原子の相互作用によって成立する世界=多の一
- 客体
- 爾(しか)考えるならば、世界は同じ世界の繰返しに過ぎない。
- なぜか?
- またそれを合目的的世界として全体的一の発展と考えることもできない。
- なぜか?
- もし然らば、個物と個物とが相働くということはない。
- それは多の一としても、一の多としても考えられない世界でなければならない。
- 何処までも与えられたものは作られたものとして、即ち弁証法的に与えられたものとして、自己否定的に作られたものから作るものへと動いて行く世界でなければならない。
- 作られたもの→作るもの
- 客体→主体
- 基体としてその底に全体的一というものを考えることもできない、また個物的多というものを考えることもできない。
- 全体←→個物
- 現象即実在として真に自己自身によって動き行く創造的世界は、右の如き世界でなければならない。
- 現実にあるものは何処までも決定せられたものとして有でありながら、それはまた何処までも作られたものとして、変じ行くものであり、亡び行くものである、有即無ということができる。
- 故にこれを絶対無の世界といい、また無限なる動の世界として限定するものなき限定の世界ともいったのである。
- 右の如き矛盾的自己同一の世界は、いつも現在が現在自身を限定すると考えられる世界でなければならない。
- それは因果論的に過去から決定せられる世界ではない、即ち多の一ではない、また目的論的に未来から決定せられる世界でもない、即ち一の多でもない。
- 因果論的←→目的論的
ここまでScrapbox上での構造化を試みたが、適切ではないと判断した。