「未来の自分がわかるようにするする」というのは知的生産をする上で必須の行動だと思っていたのだが、意外とそう思わない人がいることに気づいて、なぜ僕がこれを必須の行動だと思うのかについて考えてみた
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「他人にわかるように書く」が理想
- だが、他人がどんな知識を持っているか不明なので本格的にやると教科書を丸ごと書くようなことになってしまい高コスト
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そこで「未来の自分にわかるように書く」
- 1年後の自分をこう仮定する
- 今の自分が半年前に知ったようなことは忘れている
- 今の自分が2年前から知ってるようなことは知っている
- ある種のペルソナか
- 2021-09-04時点の具体例
- 1年後の自分はPythonは知ってる、Cypressは知らない、マイクラはプレイできる、レッドストーン回路はあまりわからない
- 1年後の自分をこう仮定する
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これをやらないとどうなるのか
- 理解コストが一定以上に高くなった文章は、よほどそれに価値があると信じない限り読まれなくなる
- つまり知的生産の成果物が塵に戻る
- 時と共に価値が減っていく
- 多くのものがそう
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- 何年も経ってから読み返して理解できるのが「1」のライン
- これですら結構大変なこと
- 自覚的にやらないで勝手に得られるようなものではない
- だから条件を緩めて「自分にとって」「1年後」とする
- 何年も経ってから読み返して理解できるのが「1」のライン
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具体例
- コメントを書かなかったプログラムが1年後にメンテナンス不能になる