先日の「なぜ教える立場であり得る人が学ぶ立場を取るのか」という話、そもそも「教える」ということが「教える人という立場を得ることによって承認を満たす」「自分の知っていることを伝えることによって周りの人を強化したい」「自分の考えを伝えてフィードバックを得ることによって自分の考えを発展させたい」など人によって異なる目的によって行われているのでは。 「アイデアを公開したら誰かが改善してくれる」というナイーブな思考は「オープンソースで公開したら誰かが開発を続けてくれる」に似たもので、極めてレアだということを痛感していて、だからフィードバックによって発展「してもらえる」とは考えておらず、得られたフィードバックから自分が取捨選択して発展させるつもりなのだろう、だから「ランダマイザ」などの言葉になる。自分の視点とは異なる視点からの情報が得たいわけである。 「何かを発信してツッコまれることに対してあまり恐怖を感じていないように見える」と評されたことに関して、結局のところそれは「あなたの考えは素晴らしいですね」と言ってもらって承認欲求を満たすためではなく、発展につながる情報を求めているからなのではないか 賛同されるのも、見当違いな批判をされるのも、価値としては変わらない。もちろん機械ではないので後者の方が不快だが、不快に思うことの責任は自分にあるので速やかに忘れる努力をする感じか https://www.facebook.com/1129148772/posts/10217342666615191?d=n&sfns=mo