『存在と時間』(そんざいとじかん、”Sein und Zeit“、1927年)は、ドイツの哲学者マルティン・ハイデッガーの主著。 この書の目標は巻頭言で次のように記されている。《「存在」の意味に対する問いを具体的に仕上げることが、以下本書の論述の意図にほかならない。あらゆる存在了解内容一般を可能にする地平として時間を学的に解釈することが、以下の論述のさしあたっての目標なのである。》 存在と時間 - Wikipedia

目的論 - Wikipedia 目的論

マルティン・ハイデッガー以降の欧州(独仏)を中心としたいわゆる現代哲学では、存在自体も自己の関心(世界との向き合い方)によって産出されると考える

世界=内=存在としての現存在

ハイデッガーは、現存在に関するいかなる分析も、既に、いつも「われわれは世界の中にいる」という「事象そのもの」から始めなければならないと主張した。彼によれば、現存在の存在規定は、「世界=内=存在」(In-der-Welt-sein)という統一的な存在構成を基礎に、「アプリオリ」に見届けられ、かつ、了解されなければならないのである。彼は、「世界=内=存在」の構造契機の多重性に着目し、これを「世界の世界性」、「共同存在」、「世界内存在」の三つに構造に分け、分析を始める(第1篇第2章第12節)

関心

ハイデッガーは、以上のような実存論的分析を経て得られた世界=内=存在の各構造全体を統一する全体性が「関心(気遣い、ゾルゲ)」(Sorge)であると主張するが、ここでいう「関心」は、存在の問いを開発するという目的の準備にすぎない以上、存在論的にも意味付けられたものでなければならない。彼が実存論的に分析したところによれば、現存在は、平均的的日常性においては、「頽落」(Verfallen)しつつ、開示され、非投企的でありつつ、投企的に「了解」(Verstehen)し、世界の中での、存在者とほかの世人との共同存在とにおいて、己の存在可能性に関わりをもたらされているものである、として規定されている。他方で、現存在ならざる世界内存在者は、「用具性」(Zuhandenheit)と客体性によってその存在様式が規定されている。そのため、更に論証を進めるためには、関心と用具性および客体性の存在論的な連関を明らかにしておく必要がある。