現実: 人間の選択と認識の間gpt.icon

gweoipfsd 善人でありたい、正しいことをしたいと思っている人は割といる。でも、善の基準は自分だけじゃなく相手も決めるもので、完全な善なんてもものはそもそも不可能だ。 でも、可能な限りやってるとか世間並みにはやっているとかでOKという、よく考えれば謎のルールを持ち出して、自分は十分以上に、ほぼ完全に正しいと思い込んでいる人が多い。 生き方としては現実的だし、ある意味正しいと言えるかもしれないけど、それは他人を見捨ててないと言い切れるようなものではない。 というか、どんな善人だって他人を見捨てないで生きることは不可能だ。それこそ人間が他の生命を殺して生きているということと同じだ。そういう当たり前の現実から目を背けているよね。 だからどうしろと言ってんじゃなくて、それが現実でしょ。ってだけなんだけどね。 具体的な事実から目を背けて抽象化した現実で生きると人はとても残酷になる。それが間違っているというんじゃなくて、単に事実だ。

gweoipfsd そもそも善とは何かという議論もあまり意味がないと思っている。善という概念は、社会的動物としての人間が個体よりも群れの利益を優先した行動に対して脳が報酬を与えると種が生き残りやすくなったことから、進化の中で発達したものだとしか思ってないからだ。 そしてさらには群れの利益に反する自分本位の個体に対して制裁を加えるような感情を発生させることでその効果をさらに高め、結果として善であると思われるような行動を擬態するようにどんどん複雑化していっているということでしょう。 まあ、そういう理屈は置いといて、個人の生き方としての問題は、自分の周りの人を助けたいというどうしようもない感情に対して、どう向き合うかということだと思います。簡単に助けられることならいいけど、本当に助けたいならとんでもない犠牲が必要なことも多い。どこかで見捨てるのが現実的。別にそれが間違っているとも思わない。ただ、見捨てているのに、これは社会が助けるべきものだから、自分が見捨てているわけじゃない、と思い込むことに関しては、僕は欺瞞であると感じる。

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