コミュニケーションの立川モデルで僕の側のモデルとして描いた図に「この内面の無視は意図的にやっているのか?」という質問があったのでまとめる。
僕個人の発達過程においてはまず素朴に「表現されたものが事実だ」と思う時代があったと思う。
次に対応づけを習得していく。 例えば京都で「お茶漬けでもいかが?」は「そろそろ帰れ」の意味だ、って話がある。これは事実として表現された発話と、観測できない内面の対応づけだ。 事例を収集していくうちに「君はまだ若いからわからないかもしれないけど世の中そんなに簡単じゃないんだよ」は「私はあなたの主張に根拠を示して反論できないのですが、それを認めることは私の自尊心を損ねるのでこの話はもうやめませんか?」だろうな、ということがわかるようになる。
一方で、この「わかる」を実現するにはかなり高いコストが掛っている。ソースコードの公開されていないプログラムの明示的なエラーメッセージではないログ出力からプログラムの内部状態を推測するのと同じくらい大変。なのでコストをかければわかるとしても、大部分のケースにおいてはそのコストをかけない。単純なモデルで近似をする。
これは僕に限らず多くの人がやっていることだ。
- 「男はこういうもんだ」
- 「この年齢でこういう身なりの人はこうだ」 これは偏見とも呼ばれる。
単純なモデルでの近似の中で、偏見と呼ばれないものがいくつかある。 その一つが「あなたが明示的に表現したこと以外はわかりません」だ。 これが、僕が半ば自覚的に選択している近似である。
近似ができるかどうかは職種や置かれた状況によるだろう。元の立川さんの話のように結婚相談所のアドバイザーという仕事なら、高いコストを掛けてでも個々の顧客の内面を理解することが有益だろう。一方で僕は研究者ということになっているので「すみません、言葉の裏の意味を推測したりするの苦手でして。明示的に言われたことしかわかんないんです〜」とでも言えば多くの人は納得してくれる。