道徳規範は人々の生活様式と、そこでの人々の是認の産物であって道徳的性質が世界の側にあると考えるのは錯誤である、というもの。

ブラックバーンの擁護

私たちが道徳的価値について「客観的なもの」と感じてしまうのは、特定の生活様式の中で行為の正・不正を教え込まれ、内面化する中で、その環境で「不正」とされる行為に否定的感情を持つようになる。その感情が、道徳的価値がいかにも客観的に存在するように感じさせている。

原始的には人間は自分の欲求に従って動いていて、複数人で暮らす時に個々人が自分の欲求で動くと都合が悪い時があり(食料を勝手に食べるとか)、最初は力を背景にして統治された(つまみぐいをすると父ちゃんに殴られるとか) この時点では一人の人の「他人の特定の行動をコントロールしたい」という欲求に基づく行動に過ぎなかったのだが、その環境で生活してそれを是認した人たちがそれを客観的な道徳規範と誤認する。 「つまみ食いすると父ちゃんが怒って殴る」が客観的事実だったのに「つまみ食いは悪である」に変わってしまう。

パワハラが蔓延している会社で、過去にパワハラを受けた中堅が新人にパワハラをする「パワハラの連鎖」を良くないものだと考えてきたけど、それは彼らの生活様式で是認されてる倫理と僕の生活様式で是認されてる倫理が異なるからそう見えているだけであって、その会社の中で起きていることは倫理の成立過程と同じなわけだ

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