ゲームをして時間を使ったことに罪悪感を感じるという話を見て
まだまとまってない
生産的な活動とゲームを比較して、ゲームを非生産的な時間の使い方だと考えている?
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「生産的」の尺度は何か?
- たとえばなし
- デイトレーディングで普通の人が働くのよりもたくさん稼げる人がいる
- もし1日休むと、その日稼げるはずだったお金を得ることができない、これは損失
- なので毎日休まずPCに向かい、相場の変化を見つめ続けている
- これは「生産性」が「金額」で測られている
- その尺度で測った価値を生み出すことに長けているがゆえに、それをしなかったときに「得られなかったもの」(逸失利益)を損失だと認識してしまう
- 探索と利用のトレードオフで利用に偏っている
- 利用をしないことは損失と認識しているので、探索を行うことができない
- 個人的にはこれは執着によって苦が生まれてると思う(仏教徒的発想)
- 一日で普通の人の何日分も稼げるのだから「より多く欲しい」という気持ちを手放せば楽になるのになーと思う
- 本人は「自分は世界に数人しかいない能力を持っている」と思っている
- だが、それによって得られたものは死後の世界に持っていけるわけでもない
- 現世の「価値のないもの」に執着している
- たとえばなし
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「生産的な時間の使い方をするのは非生産的な時間の使い方をするよりよい」という価値観の根拠は何か?
- 価値観軸
- 内的なもの?外的なもの?
- 無意識のうちに他人の価値観によって歪められていないか
- たとえば親の反応などによって
- ゲームをすると怒られ、勉強をすると褒められることによって特定の価値観を刷り込まれたのではないか?
- 「生産的に時間を過ごすのが良いことである」のか?
- 「善」の定義の問題
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- 生産的に時間を過ごすと幸福が得られるのか?
- ゲームを楽しく遊んだなら幸福が得られたのでは?
- いまいち面白くないゲームを「買った以上はクリアしないともったいない」と思って義務感からクリアするのは幸福追求的でなさそう
- ゲームをした後「ゲームに時間を費やしてしまった」と解釈することによって不幸を感じてるなら、その解釈こそが有害なのでは
- 「幸福に時間を過ごすことが良いこと」なのか?
- ここは思想
- 僕はエピクロス派の快楽主義者であって、人生の目的は快楽の合理的追求だから!
- 快楽には質があるという話 快楽の質
- 生産的に時間を過ごすと幸福が得られるのか?
- たとえば親の反応などによって