2017-12-01 Facebook 2017-12-01 #2017#12-01#2017-12

canとwillの病。ところてんの記事を読み直して、道を歩いているときにふと思った。自分の「やれること」を広げることが「やりたいこと」になってしまうことがある。

その状態は有害なのか有益なのか。

たとえば「これってできる?」と課題を目の前に出されると、できないならできるようになりたいし、できそうならできるということを示したいので、その課題をやってしまう。内発的動機ではなく目の前に現れた課題を長期的な戦略なくこなしてしまう。

利用と探索のトレードオフにおいて、探索に資源を振ってしまう。

ランダムに目の前に現れた課題を解決することを続けていると、年を取った時に「だいたい何でもできるけど何にも特化していない人」になってしまう。

「やれること」を広げたいという欲求は、人生の初期において有益だし、おそらく原始的な欲求なのだろうと思うが、それが特定の分野に分化することなく維持されると有益ではない?それとも消滅してしまうことに比べれば欲求が維持されている分だけマシと言える?分野特化した人には勝てない。

マネーフォワードのアプリでレシートを撮影すると、OCRされて家計簿に入って、とても便利。これを作れるか?って思ったら「大よそのつくり方はわかる(=作れる)」と判定する。だけど「じゃあ作って」と言われると現状の僕はNoって答えるし、昔の何も考えてなかった僕は引き受けたかもしれないけど、数値のOCRができたあたりで「あとは泥臭く頑張るだけだから面白くない」って言って投げだしたと思う。「できることを増やす」が根源的なwillなので「できる」ということを確認したところでモチベーションが終ってしまう。

  • Izumi Kawashima 泥臭い作業を経ずに「できた」とは言えないのでは…?
  • 笹尾 卓宏 組織においては、そういう役割も大事なので、いいんじゃない?

Ken Aoyama 有益だと思います^ ^ いわゆる、チャレンジです!

加藤 真一 その疑問を感じている時点で、もっと強烈なグランドチャレンジを欲しているのかも。